2012年11月25日日曜日

いいことをしたら、悪いことをしてもいい?

誰からも尊敬を受けていた立派な人物が、大変な悪事に手を染めていたことがばれて、大きなニュースになることがあります。

なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

「正しいことを考える人間は善行を行うし、悪いことを考える人間は邪なことをおこなう」
と、誰もが考えがちです。

ところが、必ずしもそうは言えないようです。
良いことを行い、考えている人間には、「自分はすこしばかり悪いことをしてもいい、そうするだけの権利が自分にはある」と考える傾向があるとしたら、どうでしょう。

『スタンフォードの自分を変える教室』の著者・ケリー・マクゴニガルの記事「After an especially good deed, are you destined to sin?」によると、自制心について研究を重ねていたノースウェスタン大学のチームの研究結果では、良いことを考えることが必ずしも将来の善行を担保するものではないのだそうです。

実験の対象となる人々を2つのチームに分けて、一方には「思いやり」「寛大」「公正」「親切」などのテーマで作文をさせ、もう一方には「不誠実」「貪欲」「下品」「利己的」という題で作文をさせました。

彼らに実際に下品なことを行わせたのではなく、単に、そのことについて考えてもらっただけです。

ところが、その「実験」が終わった後、慈善団体に寄付をするように、彼らは依頼されました。
実は、善や悪について作文を書かせることではなく、その後の寄付の要求に対してどのように反応するかを調べることが、実験の目的でした。

……普通ならば、良いことについて考えた人間の方が、慈善行為に積極的になると考えます。
ところが、実験結果は逆でした。
悪いことについて頭を巡らせた人のほうが、寄付の金額が圧倒的に多かったそうです。

寄付を求められる前に要求されたのは、考えることだけです。
ところが、人は善行について考えただけで自分に満足してしまい、それ以上の善行は不要だと考え、逆に悪いことについて考えた人間は反省して、良いことをもっと行おう、と考える傾向にあることが分かりました。

似たようなことは、私たちの日常でよく経験します。

私にもありました。
真面目な学生生活を行なっていたときのこと、たまたまあった飲み会で、酔いが回る内に、
「いつも真面目にやっているんだから、少しばかりハメを外してもバチは当たるまい」
と考えて、普段は決してしないような大騒ぎをおこなったことがありました。

自分が良いことをしている、悪いことはしていない、と考えているからこそ、
「少しばかり間違ったことをしてもいいのではないか」
と考える傾向があるのは、人間の弱さですね。
悪い意味で、バランスを取ろうとするのです。

日本の宗教である浄土真宗の有名な理論「悪人正機説」のことを思い出しました。
親鸞は、人間というものは、生きている限りは罪を犯さざるを得ない悪人であり、善人とは自分が悪人であることに気づくことの出来ない愚かな存在である、と考えました。

そして、自分のことが悪人である、と心の底から思うことのできた人間こそが、阿弥陀如来によって救われる対象となる……とこのように説いたのです。
彼の教えによって、極悪非道な人間が増えたのでしょうか?
実際は逆で「自分は悪人である」という深い自覚をもった人々は「南無阿弥陀仏」と唱え、善行をひたすら積み、信仰が深まれば深まるほど行いを慎むようになります。
修行を積んだ人は「妙好人」と言われ、尊敬の対象となっていったのです。

不思議なものです。
自分が悪人であると考える人間の方が、倫理的になり、尊大な人間、傲慢な人間が鼻持ちならない性格の持ち主となるのが、この社会の理(ことわり)なのでしょう。

「自分は悪くない」
「自分は立派な人間だ」
と考える人間は、得てして他人を傷つけ、他人を否定し、他人に迷惑をかけても、自分が間違っているとは考えないものです。

ノースウェスタンン大学の研究結果をもとにすれば、立派な人間が、浮気をしたり、社内で不正を働いたり、公金を横領したりする人間となるのは矛盾でもなんでもないのです。

自分が間違っているのではないか、自分は悪い人間ではないか、という視点を常に持ち歩いて、生きていくことが必要なのかもしれませんね。

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