2012年12月20日木曜日

猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ②

新都知事となった猪瀬直樹氏が、かつて1987年に雑誌に発表し、1994年に刊行した『交通事故鑑定人S氏の事件簿』(以下、『交通事故……』)。
猪瀬氏は、この本の出版を契機に、交通事故鑑定に詳しい人物としてメディアで発信を始めます。
1987年に週刊文春10月6日号で、江守一郎という交通事故鑑定の権威に挑戦状を叩きつけました。
江守氏を斬り、返す刀で切りつけたのが、もう一人の交通事故鑑定の権威、林洋でした。

林氏については、
★ 交通事故鑑定人  林洋のページ
★ 魂の仕事人 交通事故鑑定人 林洋氏 その一
★ 魂の仕事人 交通事故鑑定人 林洋氏 そのニ
★ 魂の仕事人 交通事故鑑定人 林洋氏 その三
をお読みになったほうが、より人物像を理解できるでしょう。

林氏と猪瀬氏の応酬の流れについて説明します。

A 猪瀬氏が林氏を週刊文春誌上で批判(1994.10)

B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議

C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否

D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される

E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)

F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)

G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)

H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)


この流れにそって、どのような応酬が二人の間にあったのかを、くわしくみていきます。

A 猪瀬氏が林氏を週刊文春誌上で批判(1994.10)
週刊文春誌上で猪瀬氏は、次のように林氏を批判します。
 ……拙著『交通事故鑑定人S氏の事件簿』に登場するような、徹底的に現場にこだわる鑑定人は少ないのだ。
 たとえば朝日新聞の「ひと」欄(89年3月26日)に「自動車事故の鑑定でホームズと呼ばれる林洋さん」が登場したことがあった。記事には「昨年は八十五回、法廷に」「開業以来四年間に取り扱った事故は二千五百件」とある。さらに林鑑定人自身が「迅速に、内容ごとに定価を決めてやっているので、全国の鑑定の、たぶん半分が私のシェア。月平均の鑑定料収入七百万円」と豪語している。「ひと」欄の記者は、五十七歳(当時)のこの人物の発言にいかがわしい臭いを感じなかったのだろうか。裏も取らずに自慢話を載せてしまう感覚は理解しがたい。年八十五回法廷に立つ、ということは三日に一回の割合で裁判所を回ることになり、しかもその間、一年に六百件、つまり一日に二件の割合で鑑定書を仕上げたことになる。物理的にあり得ない。もしほんとうなら、記者は逆に追及すべきだ
 こういうでたらめな人物が、最高裁のデータでは江守鑑定人の三十件に次ぐ、第二位の九件の鑑定を裁判所に依頼されてやっている。まことに憂うべき事態ではないか。
一見、もっともな指摘です。ところが、のっけからこの記事は間違っていたようです。
裏も取らずに自慢話を載せてしまう感覚は理解しがたい。
と朝日新聞記者を批判するふりをして、林氏の実績に疑義を投げかけていますが、こんなことは当時の公的な記録を調べればすぐに分かることです。

林氏はすぐさま、昭和53年当時の裁判所出廷記録、鑑定依頼・発行依頼の原簿の写しを猪瀬氏に送ったところ、猪瀬氏はぐうの音も出なかったそうです。

次に、鑑定書の多さについて。
林氏はこう反論しています。
……次に私の「鑑定書多発の罪」の告発であるが、(中略)これは、朝日新聞に記事が出た平成元年(1989)の当時は、まだ、むち打ち症関連の裁判が多かったためである。(中略)平成元年当時、私の鑑定書発行件数が多かったのは、むち打ち症疑義事案の保険会社対受傷主張者間の話合いのための、つまり、裁判以前の和解交渉段階の「簡易鑑定」が多かったためである。また、裁判所出廷回数が多かったのは、むち打ち症関係の債務不存在確認請求訴訟の証人尋問呼び出しが多かったためである。現在の証人尋問出廷のペースは年間四十回前後である。
まあ、これだけでは、簡易鑑定にかかる労力、当時の裁判の実情などがわからないので、どちらが正しいのか、なんとも言えません。

~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ③に続く~

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