さて、一昨日の続きです。
もともと律令国家としてスタートした日本では、土地はすべて天皇のもの。それから、国が少しずつ土地の所有を認め、それが荘園となり、やがて守護大名が荘園を簒奪して支配下へ組み込んでいき、戦国末期には大名の支配が確立しました。
加賀の一向一揆は、この流れに逆行するものでした。大名の代わりに、京都の寺院の支配下になり、年貢も寺に納めます。寺院の支配に逆らった場合は、本願寺から討伐隊がやってくる、というものだったそうです。
住民自治から程遠く、とてもじゃありませんが、日本の民主主義の萌芽とは言えない、というのが最近の歴史学では定説のようです。
それに比べて、間違いなく住民自治が行われていた都市があります。ご存知、同時代の堺です。
会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる組織の構成員は、住民の指導者的立場の者たち。彼ら同士で話し合い、堺の行政を担っていたというのですから、今の議会のようなものでしょうか。
なぜ彼らが独立した存在となったのか? それは、彼らの宗教と、彼らの住む土地とのねじれ現象のためです。
堺はもともと京都の臨済宗相国寺の荘園。ところが、この土地では次第に日蓮宗が広まっていきます。堺の指導者層にも日蓮宗の信者が多くなり、彼らは信者ですから、地元の日蓮宗系の寺院で度々顔を合わせるようになります。
彼らはそこで、様々な揉めことを解決するようになります。それが会合衆の始まり。つまり会合衆の人々は、日蓮宗の信者なのです。
相国寺の僧は、地元住民との軋轢を生まないように、年貢の徴収を会合衆に代行してもらうことになりました。地下請(じげうけ)と呼ばれる行為です。ここから、堺の自治が始まります。徴収権には強制力(=軍事力)が伴います。それを住民自身が手に入れたので、自治が可能となったというわけです。
ただ、その土地を支配する寺院と、領民の信仰が異なるというねじれ現象は各地で発生していましたが、地方自治権を手に入れたのは、日蓮宗くらいのようです。
法華一揆と呼ばれる反乱では、1532年から36年にかけての5年間、日蓮宗の信者たちが京都を完全な支配下においています(もしかして、京都で未だに革新政党が強いのは、この時代の影響なのかもしれませんね)。日蓮宗は独立心が旺盛で、民主主義や公平という観念を他宗派よりも重視する傾向があり、それが住民自治へとつながっていくようです。
被差別部落の方々の亡くなった後の戒名を、遺族の無知をいいことに、僧が差別的な名前をつけてきた、「差別戒名(さべつかいみょう)」の問題をご存知でしょうか? 真言宗でも天台宗でも、曹洞宗でも浄土真宗でも、この嫌らしい行為が一般的に行われてきたそうです。
ところが日蓮宗には、その手の過ちの例が、ほとんど見つかっていません。なぜか? 一番の理由は宗祖の日蓮にあるようです。
(明日に続きます)
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