尖閣諸島をめぐって日本と中国のつばぜり合いが続いているが、それについて堀江貴文が次のようなことをほざいているということが耳に入ってきた。
★ 「尖閣あげちゃえば」のホリエモンが「中国の挑発に乗るな」
発言の趣旨を要約すると、中国と日本では「命の値段」が異なり、戦争で日本を攻撃することにためらいはない。「尖閣諸島をあげればいい」という以前の自分の発言は正しかった、というもののようだ。
不愉快極まりなく、嫌な気分だ。彼のこの発言と、彼の経営姿勢、いや生き方すべてに、共通して流れているのは、共感と想像力の欠如、その場しのぎ、そして無責任である。
尖閣諸島をめぐる領土紛争を家の敷地争いにたとえると、猫の額ほどのわずかな土地をめぐって、家の当主同士が、
「ここの庭は私のもんだ」
「ふざけるな! 登記簿をよく読め。ここが俺の土地だと書いているだろ?」
という争いを続け、仲の良かった子供同士が一緒に遊ぶこともためらわれているようなものだろう。
それでも家どうしならば、民法や不動産登記法などの法律を基準にして解決することが可能だけれども、国際間の領土紛争を解決するための強固で詳細な国際法はないために、解決までの道程は遠い。
領土問題は大きなトピックだけれども、たとえば貿易交渉などで国家間の小競り合いは日常茶飯時にある。彼らの交渉史などを読むと、ほんの些細な譲歩が、その後の国家の大きな損失を生んだ例が数多く出てくる。だから彼らは、小さなこと、些細な事にこだわる。だから、尖閣諸島がどれほど小さいことだろうと、「小さいから上げてしまえばイイ」といういい加減な考えが彼らから出てくることは、まずない。
だが、概してプロとはそんなものだろう。門外漢からすれば些細に見えることやくだらないことに、とことんこだわらないとプロとは言えないし、プロとして大成しない。
門外漢は彼らのこだわりを理解することは出来ないが、想像して共感することは可能だ。お互いの細かなこだわりを理解し、尊重することで、日本のような高度な社会システムは崩壊せずに秩序を保っている。
ところがホリエモンには、想像力を働かせて共感しようとは決してしない。他人からすればくだらなく見えるこだわりを、くだらないものはくだらないものだと一刀両断にしてみせる。専門家から、
「黙って見ていろよ」
と疎外されてきた多くの人々は、それに喝采を送る。沢山の人々から得た金銭的支持、あるいは応援をバックに既得権益に切り込むという手法が、彼のやり口だ。
ただ、小さなことにこだわらないシステムは必ず破綻をする。ダムもアリが開けた巣穴から崩壊することがあるように、そこにいるプロのこだわりを理解しないままそのシステムを手に入れても、そのシステムが命脈を保つことはない。
その時ホリエモンはどうするか? 未練を見せずに捨ててしまうのだ。己に養分だけを吸収して、あとは責任をとらずに、利用だけして次の獲物へと向かう。言わば悪い意味での焼畑農法の体現者だ。
将来がどうなろうと、彼はあまりこだわらない。「今」が大切なのだ。人々の欲望を刺激して自分に注目させて、金を集めて肥え太ろうとする姿勢は、悪党そのものなのだけれども、本人の明るいキャラクターのために、悪どさが際立たない。
冒頭の尖閣諸島の問題においても、とりあえず今をしのげればよくて、その上で戦争反対論社や中国支持者からは確実に利益を得ることができて、なおかつ細かなことにこだわることがバカバカしいと思う彼の生き方からすれば、領土を与えるということは当然の結論となる。
共感性・想像力の欠如、将来への無責任を表明していながら、欲望追求に貪欲で適度にストイック、明るい性格とビジネスセンスを同居させたキャラクターは彼以外にはいない。不思議なキャラクターで魅力的ではあるのだけれども、彼の口車に乗って踊れば、いずれ地獄を見ることになるだろう。
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