2013年4月9日火曜日

努力には信念が必要

先日のブログで、ディスレクシアという概念を紹介し、その上で、英語を努力するのはあなたにとってムダかもしれない、という疑念を示したところ、ある人から、
「努力をやめろ、ということか?」
と質問された。

そうではない。努力をしてもムダかもしれないけれどもそれでも努力はするべきだ。この矛盾するような考え方の参考になるのが、フランスの神学者であるカルヴァンの唱えた「予定説」だ。

聖書が書かれて数百年。西洋人は、聖書を基本とした形而上の空論を繰り広げ、ああでもない、こうでもないと議論を続けてきた。聖書に書かれていることは真実だ。だが、聖書に書かれていることを真実だとすると、様々な矛盾が、そこに現れてくる。
キリスト教によれば、神は全知全能であるはずだ――然り。

全知全能の神ならば、すべてを事前に決めているはずだ。そこには人間のちっぽけな意思なぞが介入する余地はない――然り。

人間は、死後に神の前に引き出され、天国に行くか地獄に行くかを決められる。そこには救われる人と、救われない人がいる――然り。

全知全能の神は、事前にすべて決めている。それならば、救うべき人間も救わない人間も、生まれる前から決めているのではないか?――ううん……そうなるかな。

そうだとしたら、私たちが救われるかどうかは、あらかじめ決められているということじゃないか? それならば、人間は努力する意味はないのではないか? 「良き人間になろう」として努力する意味はないのか? ――ええと、考えさせてください。
こういった門外漢からみれば無意味な応答が繰り返される内に、西洋では論理学が発達したのだが、それはさておく。上記の問答のように、全知全能の神が定めた運命の前では、人間の努力に意味はない、と考える人々に対して、
「それでも努力が必要だ」
と主張したのが、16世紀フランスで活躍して、プロテスタントの教義の基礎を築いた、カルヴァンだ。

彼は説く。

神は全てを事前に決めている。だが、それを人間が知る術はない。けれどもそれを証明する方法が一つある。あなたが努力するという行為、そのものが、あなたが神に救われていることを示す証しなのだ。
「自分は神に救われる人間のはずだ」
ということをひたすら信じて、正直に生きて、一生懸命に働きなさい、その結果、あなたに富が蓄えられれば、それは天国へ近づいた証拠なのだ、と。

話を戻すと、勉強は、すべてこの種の「信念」を必要とする行為のように思う。自分は目標を達成できるという、不確かな未来を信じて、ムダかもしれない努力を行わなけ!ばならない。出口が見えるまでは、つらい冬の時代を過ごすこととなるが、信念がないと努力はできず、結果、目標は達成できない。

たしかに目標は達成できないかもしれない。だが、筋力や持久力はつく。

スティーブ・ジョブズが、かつてスタンフォード大学でのスピーチで、
「点と点をつなげろ」
と述べた。学生時代には無意味だと思われた芸術の授業が、将来のマッキントッシュという美しいパソコンの作成に役立った。将来を予測できない人間は、今の努力が将来、点と点を結ぶに違いないと信じて、できる努力を今、続けていくしかない、という彼の信念だ。

彼の言う「点」とは、目標に達成出来ずに途切れ、人生の途上に転がった、いくつもの努力の塊のことを指している。

私も英語の勉強など、ムダかもしれない努力を今でも続けていて、なかなか結果が出ないけれども、そして、自分がディスレクシアかもしれないという恐れを持っているけれども、それでも、努力すること自体に"も"意味があると信じて、やっていくしかあるまい。

あなたの努力に、神の恩寵があらんことを祈る。

――たとえこの世界に、神はいないとしても。

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