ある名優を使って食事のシーンを撮影していた時のことである。ベテランの俳優で、もちろん食事のマナーは完璧。作法に問題ないはずなのに、何度取り直しても監督はそのシーンに違和感を感じる。
最初は原因が分からなかったが、助監督とともに試写フィルムを見直して、その理由が判明した。……俳優のマナーが"完璧"過ぎたのだ。
その俳優は貧しい家庭で育った。親は無教養で、子供にマナーを教えることはなかった。大人になって成功をつかんだのち、様々な人々と食事をするようになった彼は、必死にマナーを学び、完璧な作法を身につける。
ところが、彼には「間違ってはいけない」という緊張がどこかにあった。意識しながら、一つ一つの動作をこなさねばならないから、どこかぎこちない。それが、フィルムを通すと途端に、透けて見えたのだという。
生まれつきの金持ちや教養ある家庭で育った人々は違うようだ。子供の頃に叩き込まれ、嫌々ながらも幼くして身につけたものは、普段の動作に染みこむ。だから無意識の内に、マナー通りにふるまえる。だから、自然で緊張がないのだ。
上流階級(嫌な言葉だが)の人間は、だからこそ、時にはお思いきり不作法にふるまうことすらできる。それ以外のマナーが出来ているから、一部分が無作法でも、周りを不愉快にさせないのだ。それが彼らに、自由な雰囲気を与える。名優には、その種の余裕がなかったのである。
そもそもマナーとは何か。他人を不愉快にしないための所作振る舞いの一体系だ。社会に出ると、不寛容な人が多いことに誰もが気づく。些細な仕草を不愉快だと思う人が、世の中には大勢いるのだ。
食事中に話すと「唾が飛ぶ」と嫌がる人。
口を開けながら食べることを「くちゃらー」と呼んで毛嫌いする人。
食事中に鼻をかむことを「汚い」と顔を背ける人。
ひじをつくと「姿勢が悪い」と怒り出す人。
皿に取り分けられた料理を均等に食べないと、不機嫌になる人・・・・・・。
気になる人は気になるのが、こういった一つ一つの他人の所作である。食事のマナーとは、たくさんの立場の人々に不快感を与えないような所作の集合体、と言えるだろう。
だが、すべて守ると窮屈だ。だから、一生、いついかなる時にでも、マナーをすべてを守れる人ような人はいない。それに、マナーは文化や家庭によって微妙に異なる。食事中に会話することが当然の家庭に呼ばれたにも関わらず、親からしつけられた通りに、食事中は無言を貫くような人は、食卓を不安にさせるだろう。その上、その理由を尋ねられて、
「食事中に話すと、唾が相手の料理にかかるので、汚いですよね。だから、食事中は会話してはいけないと家で習いました」
と答えるようでは、相手の家庭を不愉快にしているので、むしろマナー違反だ。他人に不愉快な念を抱かせないためのものなのに、本末転倒な話となる。
こんな話がある。イギリス女王を囲む食事会で、果物が出された。果物の皮を指でむかなければならないので、指先をすすぐための水をためた容器「フィンガーボール」が招待客に配られた。皮を剥いた後、そこに指を入れて、果汁で汚れた指先を洗うのだ。
ところが、無教養な賓客が、知らずにフィンガーボールを持ち上げて、水をごくりと飲んでしまった。当然周囲は失笑する。女王の前で無様な態度を取った彼は、翌週のゴシップ新聞に、
「バカはいつまでたってもバカ――女王の前で洗浄水を飲み干した成金」
などといったタイトルをつけられた記事で、侮蔑され、国中の笑いものになっていたかもしれない。
ところがそこは英国女王。とっさに同じようにフィンガーボールの水を飲み、周囲の失笑をピタリと止めた。お陰で、この賓客の面目は守られたという。
マナーを守りつつ、状況や相手によって一部のマナーを破ることができる……英国女王のような融通無碍な態度を取れることが、本当に「マナーが身に付いた」と言えるのだろう。
マナーが他人と円滑につきあうための態度の体系ならば、当然の帰結なのだが、ここに思い至らない人が、あまりに多い。そして、
「マナーを身につけたからこそ、マナー違反ができる」
ということは、他の様々なことにも、言えることなのだ。
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