外資系銀行とは異なる日本の金融機関の文化にうといために、最初はドラマの何が面白いのか分からなかったという藤沢氏。
僕が最初によくわからなかったのが、この銀行員たちがいったい何のために、権謀術数を張り巡らせて争っているのか、ということだった。その政治闘争に勝ち抜けば、億単位のボーナスがもらえるわけでもない。
そして、クビの代わりに、『出向』というのがあるらしいことがわかった。その出向というのは、「雇用関係にある企業に在籍をしたまま、子会社や関連会社において業務に従事すること」を言うらしく、驚くことに、給料さえ減らないのだ。(中略)勝っても金が貰えない、負けても金を取られない、いったい、この人たちはどういうゲームをしているのか? さっぱりわからない。モルガン・スタンレーとかゴールドマン・サックスだとかでは、億単位の年収が当たり前なので、日本の金融機関で悪戦苦闘する半沢直樹のモチベーションに共感できなかったと告白する藤沢氏だったが、3話、4話と観るうちに、ようやく彼らの内在原理に気づく。
そして、銀行員たちが何を賭けて闘っているのか、理解した。それは、金よりも大切もの。命よりも大切なもの。
プライドだ。
実際に、銀行で出世するか、どこかに出向するかによって、銀行員だけではなく、その妻や子供の序列も、社宅の中や幼稚園の中で如実に変化する。(中略)そして、出向というのは、家族をも辱めの対象にされ、まさに死刑同然のものなのだ。家族を巻き込んだプライドを賭けた闘争というのは、まるでマフィア映画『ゴッドファーザー』のようだ。
そこで藤沢氏、ようやく「半沢直樹」にはまるのだが、なるほど……と思うと同時に、アメリカだって同じだろうと思う気持ちを抑えられなかった。
金持ちの思考は想像するしかできないが、以前、堀江貴文が、
「豪華な生活をしようとしてもある程度を超えたらあまり変わらない。千円の食事が1万円になったら格段に味が異なるし、豊かさを感じるだろうが、5万円の食事が50万円になったからといって、段違いにうまい、ということもない。年収2千万円を超えたら、だいたいの贅沢はできるので、生活水準はそれほど変わらないんじゃないか」
ということをどこかの対談で語っていたと思う(うろ覚えだが)。
そうかもしれない。だが、高収入者は今以上の収入を望み続ける。昨年のカルロス・ゴーンの年収は9億8700万円だという。そんなにもらってどうする? 年収が1億円だとあなたは今の仕事ができないのか? と、思わず問いたくなるけれども、年収が2000万円を超え、ある程度の贅沢はすべて経験して、生活に余裕があろうとも、かれらは決して満足することはない。
「もっと、もっと」
と高収入を追い求める。
藤沢氏が記事で指摘するように、アメリカのバンカーはカネの奪い合いのために熾烈な競争を繰り広げるけれども、贅沢に限度がある以上、贅沢をするためだけにカネを稼いでいるわけじゃないだろう。では何のため? もちろんプライドのためだ。
元野球選手の落合博満は、初の三億円プレイヤーを目指す理由を問われて、
「外国人選手よりも活躍する日本人選手は、外国人選手よりももらうべきだと考えた」
とあるインタビューで語っていた。落合氏が批判されながら年棒アップにこだわり続けたのはライバル外国人選手へのプライドだった。
ある程度の年収を超えた後は、
「あいつには負けたくない」
という欲望のためにひたすら数字を追い求めていく。それが向上心というものだ。
考えてみれば、アメリカのように年収のみで序列化される社会よりも、役職や地位で序列化される社会の方がコストパフォーマンスはいい。人件費をかけなくても、勝手に競争して、お互いに切磋琢磨し、ときには不正行為を暴露しあうことで組織の清浄化にも役立つ。相互監視を怠らないから間違った行為はそうそうできず、よって社内には一定の緊張感と規律が生じる。
それがアメリカでできないのは、組織がオープンで、人員の流動化が激しく、組織の論理でがんじがらめにされなくても済むからだろう。だから、社内の序列化は彼らのプライドを満たさない。その結果、カネでしかプライドを図る指標がない。企業も社内の競争をうながして社員に成績を上げてもらうために、給与に格差をつけるしかない。
思えば私たちの日本の社会は、アメリカ流のオープンな社会に憧れて、人材の流動化を進めてきた。いや、日本に限らず、世界の先進国は、自由な社会に憧れて、人間関係に縛られず、差別のない、オープンな社会を追い求めてきた。
けれども、その社会はカネでしか人間のプライドを満たすことが出来ない、まさに「資本主義」の世界に他ならない。そこで生きる人間は、プライドのために、他人よりも高収入を求めて、序列の上へと誰もが登ろうとする。そうすると自然にピラミッドができてしまうわけだが、その行き着く先は、アメリカ流の格差社会だ。
社会主義が失敗した要因の一つは、人間の所有欲という根源的な本能を無視したシステムだったからである。人間の本能に反したシステムは必ず破綻する。
アメリカ流の格差社会は、自由や公正とは相性がいい。カネ以外の差別がない、という点でも平等だ。しかし、人間はこの「カネ」の差別に敏感だ。激しい経済格差には我慢ができない。ある限度を超えると革命を起こして政権を打倒するだろう。富裕層から略奪を始めるだろう。そうすると資本主義社会は、プライドのためにピラミッドを作ろうとする人間心理と、格差社会に我慢できない人間心理を二つ抱え込んでいる点で、矛盾を抱え込んだシステムだと言える。
「半沢直樹」もドラマだから面白いが、実際の金融機関で働く人間にとってはおぞましいものだろう。
でも、金融機関が作り上げたあのシステムは資本主義社会を維持するために大変優れたシステムだ。カネをかけずに人間を序列化出来る、あのあり方を肯定しないと、私たちの社会はいずれ崩壊することになる。
たとえ醜くとも、あれは必要悪なのだとあきらめねばならないのだろう。私たちが「半沢直樹」を観るのは、資本主義社会を肯定するためだ。
……もっとも、私は「半沢直樹」、まったく観ていないからドラマの感想も想像で書いてるんですけどね。
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