ストーリーは面白い。古御神という主人公の一族が降魔の力を持ち、日本の政財界に大きな力を有しているという設定は、ライトノベルなどの黄金パターンだ。
死後の世界を司る伊佐那海(イザナミ)を、彼らは古代から鎮めてきており、一族の総長である総一郎は、ある年齢になるとイザナミのために生贄とならなければならない。その運命に抗おうと、古御神家の人々が悪戦苦闘する……そんな話だ。
アクションも面白く、ストーリーも練られている。バトルシーンは面白いし、女性作家特有の人間関係のきめ細やかな描写も素晴らしい。そこは良いのだけれども……付帯条項がつく。
とにかく男性陣の友情が、みなホモ臭いのだ。男はあのような友情を望まないし、あんな感情表現をしないし、あんなことで悩んだりしない。女性同士の友情がそのまま男性に当てはめられていて、居心地が悪かった。
描写は抑制されていて、腐女子向けの過激なサービスはないものの、どうにも感情移入しにくい。
「男性が描く女性同士の友情なども、女性からみたら共感しづらいのかもしれない」
などということを考えた。
これは、『古御神家の人』を描いた"らいま"さんの力量不足のせいではない。ミステリー界の大御所である宮部みゆきの本を読んだ時などにもよく感じる。宮部氏はホモ的な小説は書いていないものの、彼女が描く少年が友人に示す友情は、たいていホモ的で嫌になる。
女性の描く男性同士の友情はどうしてこう、男性にとって気持ち悪いことが多いのだろう。
女性はなぜ、男性同士の恋愛を描きたがるのだろう。
女性と男性の恋愛は、なぜこうも違うのだろうか。
以前、
「邦画では男性監督が多かったために、女性視点の映画が少なかった。『桜の園』は、女性の友情を女性視点で描くことに成功した数少ない成功例だ」
といったようなことを書かれた映画評を読んだことがある。
この映画を観た時に感じたのは、女性同士が好き、嫌いで仲違いをしたり認め合ったり尊敬しあったりする、その繊細な人間関係への驚きであった。女性は男性と感性が異なる……このことをはっきりと意識したのはこの映画を観てからである。
どのように異なるのか。
女性同士の友情においては、異性への愛情と似た「好き」「嫌い」という感情を同性に抱く。
逆に男性の友情は、「好き」「嫌い」という感情に基づいたものとは少々異なる。「楽しい」とか「信頼出来る」といった感情が基になっている。
女性同士の友情の基調には"愛(=恋愛、性愛)"があり、男性同士の友情の基底には"義(博愛)"がある、と定義してみてはどうだろうか。
逆に、女性は男性が家族よりも仕事に熱意を傾けることや、正義心などをよく揶揄する。
「どれが正しいとか、そんなバカバカしいことにムキになるなんてさいてー」
「そんなのどっちでもいいじゃない」
けれども、男性はそれを大変嫌う。男性は正義を大変大切に思っているから、それをバカにされることを許さない。
同じ人間だから同じような感情を持つものと、私たちはアプリオリに考える。そして、同じ「友情」という名前がついているから、同じような感情を持つものと思い込んでしまう。そこで、女性は自分たちの恋愛めいた友情の延長として、男性同士の友情をとらえるるから、男性同士の生死を超えた友情に、「至高の恋愛の形」を見て取ってしまう。
このような構図があるように思われる。
0 件のコメント:
コメントを投稿