「……経験的なことを言うなら、人が何かを強く求めるとき、それはまずやってこない。人が何かを賢明に避けようとするとき、それは向こうから自然にやってくる。もちろんこれは一般論に過ぎないわけだけれどね」(村上春樹著『海辺のカフカ』)
……望めば望むほど、目標から遠ざかってしまう。
切ない思いに苛まれる。
人は何故、求不得苦、すなわち得られないものを求め、苦しむのだろうか?
いや、発想が逆だ。
得られないからこそ、より強く渇望するのだ。
目の見えなくなった盲人が、満開の桜の花の散る景色を再び見たいという望みは、大変強いものだろう。耳の聞こえなくなった聾者が、愛しい恋人の声を聞きたいと望む強さは、想像を絶するだろう。
恋愛も仕事も名誉も、手に入れられないから、余計に執着する。
強く求めるものが得られないのではなく、得られないからこそ強く求めるようになるのだ。
進化の過程で人間の本能へと刻みつけられた習性なのだろう。得られないものを得ようと努力する個体だけが、生き延びてきた。
だから、求められないものこそ強く得たいと思う気持ちは、遺伝子に刻まれた人間の業である。
望むものは叶わないとあきらめるか、望むことは叶わず、叶えば望まなくなるというしょうもない人間の本性を知った上で、努力を重ねるか。私達には、選択肢が二つある。
これまで私は、前者を選んできたように思う。これまで読んできた仏典や東洋哲学の影響が大きかったからだろう。だが、若い内に老境にいることが尊いならば、早く死ねばいい。達観に早すぎることを、30代になって気がついた。
考えれば分かることだ。
東洋的な停滞は平和を生むかもしれないが、現状を改革できない。
絶望的なインドの差別制度を、4000年間、インドのグル達が放置してきたのを見れば一目瞭然だ(儒教文化圏では孔子は常に自己改革を唱え続けていたけれども、儒教文化圏では儒教よりもむしろ、民衆の中には道教の影響の方が強い)。
若い内に老いてなんになろう?
あきらめることを学ぶよりも、あきらめられずに悲嘆の涙を流す方がいい。感動は渇望の中に生まれる。
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