まる子は、紅白歌合戦を観ている最中に眠ってしまって悔しがる。新年を起きたまま迎えられなかったからだ。
「サブちゃんが歌うまでは起きていたんだ。サブちゃんのバカ!」
と彼女は北島三郎に八つ当たりするのである(うろ覚えだが)。
マンガの単行本で読んだシーンだ。状況は手に通るように分かる。紅白の終盤の、子供にとって、聞きたくもない演歌の大御所の歌で寝ることに悔しがるまる子の気持ちがわかる。それが当たり前だ、と思っていた。だが、よく考えればこれは凄いことだ。
『ちびまる子ちゃん』の舞台は昭和50年前後、1970年代半ば。1936年生まれで現在77歳の北島三郎は、当時30代後半だ。その頃、すでに子供には共感できない、お年寄りのアイドル、紅白歌合戦の重鎮という位置を占めていたのだから。
1975年第26回の紅白について念の為に調べてみると、出場はすでに13回目を彼は誇っている。当時ですら、彼より出演回数が多い歌手はあまりいない。歌う順番も、最後から数えて3番目だ。
たとえば当時の北島と同年齢の今のSMAPが、当時の彼ほどの貫禄があるだろうか? いやいや、SMAPファンには申し訳ないが、どこか浮ついたところのあるSMAPのメンバーに比べると、格が違うように思うのだ(イメージだけか?)。
彼が帝王として、カリスマとして何十年もの間、芸能界に君臨できた理由は何なのか? 今年最後で紅白歌合戦を引退するというので、理由を探ってみた。
長い下積みと、快進撃
北島三郎は高卒後、流しのギター弾きをしていた。「流し」というのは、音楽がラジオでしか楽しめなかった昔、居酒屋にギターを抱えて流行歌を歌っていた人々のことである。
その頃に偶然知り合った関係者から芸能界にスカウトされる。しかし、デビューまで8年かかった。長い下積みだ。
ただ、下積みから抜けだした後は早かった。26歳でデビューした彼は、「なみだ船」を皮切りに、「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」を立て続けにヒットさせ、押しも押されぬスターとなる。
芝居に歌を取り入れた舞台公演などで地方を巡業しながら、弟子を多数育成。「北島ファミリー」と呼ばれる集団を作り上げた。
東京都の八王子市には、総工費20億円をかけて、1500坪の大豪邸を建設している。出身地の函館には、北島三郎記念館も建設している。現代の大成功者なのだ。
飛び込んだのはニッチな分野
北島三郎がデビューしたのは1962年(昭和37年)。1956年(昭和31年)に経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言された6年後になる。ビートルズが「ラブ・ミー・ドゥー」でデビューして世界中で大人気となった年でもあり、グループサウンズの草分けであるスパイダースは前年に結成されている。つまり、北島三郎が飛び込んだ「演歌」というジャンルは、その頃すでに若者のものではなかった。同年代の都会の若者たちがグループサウンズやジャズなどに熱狂していたのに、地方出身の北島はその輪から外れていた。
これは、彼のライバルが少なかったことを意味する。
また、中高年層向けの演歌を歌うための人材は、本来ならば30代、40代の人々のはずだったが、この世代は戦争に駆りだされていたため、芸能界で修行するチャンスに恵まれなかった。
さらに上の世代になると、もう引退している。昔は年を取るのが早く、50を過ぎれば歯は抜け、腰も曲がっていた。栄養状態が悪かったせいだろう。
つまり、北島は人材の空白地帯にうまく滑りこんだということになる。
演歌を求める層は、中央のメディアからはあまり把握されておらず、相手にされてもいない人々だ。教養がそれほどなく、肉体労働に従事する人々が多い。彼らは活字メディアにうとく、レコード店でレコードを買わない人々だ。
ところが、彼らは娯楽に飢えている。地方に巡業に行けば、数年に一度の楽しみだ、喜んで大枚をはたく。レコードも巡業の会場でなら、応援のために何枚も買ってくれる。彼が主戦場としたそこには、競争相手の少ない、小規模ながら確実なマーケットがあった。だからこそ、大成功をおさめたのだ。
経営センスのある人は、むしろ斜陽産業を狙う。斜陽産業は超トップレベルの人材は少ないから、努力が報われやすい。相変わらず旧来のやり方にこだわる頭の堅い人が多いために、外からやってきた人間にこそチャンスがある。上記の文章は、大手経営コンサルティング会社で働いていた作家が、ビジネスを行うべき分野について書いたものだ。
何の事はない。
北島三郎がやってきたことは、プロのコンサルタントが推奨する、成功の方程式を、知らず知らずのうちになぞったものだったというわけだ。
理想のエンターテイナー
……とはいうものの、彼はニッチな産業を狙うために、演歌界に飛び込んだのではなかろう。あくまで結果だ。彼は心底、歌うことや演歌が好きだと公言している。今回も、紅白からは引退するが、歌手を引退するわけではないと宣言しているのもその証拠だろう。彼は運と才能だけではない。人知れず努力している。
北島三郎といえばパンチパーマ。髪型は一貫して変わっていない。トレードマークになっているとはいえ、飽きることもあるだろう。でも彼は、髪型を変えない。我慢もまた、努力だ。
誰もが「あの人だ」と分かる格好を、時代の流行とは無関係に貫いているのだから、ブランディング戦略として正しい。
北島三郎という名前も良かった。本名は大野穣だが、北海道出身ということでこの名前となったという。だが、たぶん「北里柴三郎」を大いに意識してつけられたのではないか。人口に膾炙した名前は、人々に覚えられやすい。実際、人々はすぐに彼の名前を覚えてしまった。
地方巡業では芝居形式の演歌ショーを行うことで有名だが、彼の軽妙なトークのせいもあって、大変面白いと評判である。明治座や博多座行われる公演チケットはとても取りにくい。
また、演歌とは異なる様々なジャンルの音楽を貪欲に取り入れることでも知られている。彼の大ヒット曲『与作』は、ジャズ・シンガーであるビル・ウィザースの"Ain't No Sunshine"が元ネタ。
北島は、それを演歌に完全に咀嚼してしまった。
好きでないと勤まらない。才能がないと認められない。そしてたまたま、有望な市場と供給者としての適性がピタリと合ったという点で、北島三郎は、大変運がいい男だった。そのうえ努力も怠らないからこそ、芸能界の帝王として君臨できたのだろう。
家庭を大切にする常識人
ただ、順風満帆というわけではない。これまで何度か危機にも陥っている。一番大きな危機は、暴力団稲川会との交際が発覚した1986年の騒動だろうか。
昔からヤクザと芸能界は切っても切れない関係にある。昔は、どの地方にも地元に根付いたヤクザがいて、祭りやショーを仕切っていた。
それは洋の東西を問わず同じで、アメリカでもイタリアンマフィアがラスベガスなどの興業に深く関わっていたことはよく知られている。フランク・シナトラは特にマフィアと縁が深かった。
だから、北島三郎のことを「和製フランク・シナトラ」などと揶揄する声もある。無論、シナトラと芸風が似ているからではない。人気があり、ファミリーを作り、なおかつマフィア(ヤクザ)と仲がいいところがシナトラとそっくりだ、というわけだ。
そのような批判があったにも関わらず、引退にも追い込まれずにここまでこれたのは、彼の人柄による。
まず、彼は酒を飲まない。また、浮気をしない。
酒は下戸で、奈良漬けでも酔っ払うほどだという。
また、独立した際は、北島音楽事務所の社長に、妻を置いた。もしも浮気などしていたら、妻を事務所の社長になど怖くて置けないだろう。事務所には様々な情報が集まってくる。浮気相手から連絡が入らないとも限らない。
だから、事務所の社長を奥さんにしたというだけで、彼の身持ちの堅さがうかがえると思うのだが、いかがだろうか。実際のところ、北島三郎が愛人を作っていたとか、隠し子がいるとかいう話は一度たりとも聞いたことがない。
また、彼は若者を応援しよう、という精神にあふれている。以前DJ OZMAが女性に裸に見えるコスチュームを着せて問題になった時も、(台本で決められていたにせよ)その演出に怒りもせず、寛容な態度で通している。
たしかにヤクザとつきあいがあるという一点で、非常識な人間なのだが、それ以外は大変温厚な常識人なのだ。ここが、これまで大過なく芸能人生を歩んでこれた理由なのだろう。
今年、北島三郎が歌うのは、「まつり」だそうだ。
歌手生活の総決算は、いったいどのような舞台になるのだろう?
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