2014年1月5日日曜日

SNSの利用と、コミュニケーション

以前、友人と話していたときに、
「この話、ブログで書いたかもしれないけれど」
という枕詞を頻繁に会話の中に出す自分に気がついて、うんざりしたことがありました。

友人には、このブログの存在を早い段階で伝えています。ありがたいことに、
「ブログをよく読んでいる」
と言ってくれます。でも、全部を読んではいないはず(友人の興味のない話題が長文で書かれているときとか、ね)。

よって、どの記事が読まれてどの記事が読まれていないのか、わからない状態で友人と話さなくてはなりません。

既知の話を相手にくりかえしたくありません。同じ話は聞かされる方がうんざり。それでは申し訳ありません。

でも、私が一番関心のあることはブログに書いてしまいます。よって、ブログに書いた話題を話すときには注意をしています。まずは内容を少し話して、
「この話、ブログで書いたかもしれないけれど」
と振って、相手の反応をみるのです。

すでに相手がその話の記事を読んでいるようならば、詳細については話さず、そこから発展させた別のことを話します。そうでなければブログに書いたことをそのまま話します。

これがなかなか面倒です。それに別の心配も出てきます。
「この話、ブログで書いたかもしれないけれど」
という枕詞自体が、相手にブログを読むよう強要しているように聞こえないか? という不安です(考えすぎかも)。

この種のとまどいは、ブログを書く人に特有ではないはずです。ネット上のソーシャルなサービス(mixiとかLINEとか)を利用している人が一度は感じるものではないでしょうか。

LINEが"既読"となっているかといって、読まれたかどうか怪しいものです。
Twitterに書いたことの多くは見過ごされているかもしれません。
mixiのつぶやきも、案外見落としがちです。

自分が公表したことを、相手がどれほど知っているのか分からない状態でコミュニケーションを取ることは、目をつぶったまま手探りで、目を開いているかもしれない相手と向き合っているようなものです。コミュニケーションの最初のステップに自己開示がありますが、自己開示したのかどうかが自分では分からないのでは、最初の段階でつまづきますよね。

彼女や親しい友人ならば、いくらでも後から修正可能ですが、数少ない出会いの中でコミュニケーションを取らねばならない相手との距離感の取り方は難しいものです。

昔、ある作家が、
「自分に仕事を頼みたい編集者は、せめてオレの書いたものを全部読んでこい」
と公言していましたが、その気持ちが分かります。自分が公表したことを相手も知っている、という前提で話すことが出来れば、上記のような居心地の悪さを感じずに済みますからね。

でも、それはあまりにも傲慢というものでしょう。読まなければならないものは世の中にたくさんあるのに、彼の書いたものをすべて読まなきゃならない義理はありません。

むしろ、その作家が、
「自分の仕事を理解するためにはこれとこれを読んできてください」
と、参考図書を数点挙げて相手の便宜を図り、さらには自分の著書の何を読んだのかを事前に確認した上で話せば済むことです。

でも、その方法は相手にとって少々負担が大きいものです。「この文章を私と会う前に事前に読んでおいて」なんてことを言うのは作家だから許されるワガママです。

なにかいい方法はないだろうか、と考え、そこで思いついたのは、最初に謝ってしまう、ということ。
「私がブログ(TwitterでもFacebookでもなんでも構いません)で書いていることと同じ話題を出すかもしれないけれど、そのときはごめんね」
とかね。

今後、もっと頻繁にネット上のソーシャルサービスが利用されるようになれば、この種のとまどいを誰もが持つようになるでしょう。ブログを頻繁に読んで頂いている皆さんのような方々が先駆けとなって、様々なマナーをつくりあげていければいいですね。

さて、今度友人に、上記のような宣言をしてみよう。

とはいっても、この記事を先に読まれていて、
「言わなくても分かっているよ!」
と怒られてしまいそうですが……。

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