「貧しかった子供の頃、重い荷物を背負って働きながら勉強していた」
という逸話だけが独り歩きしているが、克己勉励の果てに土地を少しずつ買い集め、集めた土地を小作に貸し、カネを貸して、ついには若くして大地主となったという実務家の顔が本来の姿だ。その手腕を領主に認められて以降、近隣の農村のみならず、関東一円の農村復興コンサルタントとして活躍する。
順風満帆ではなかった。農民の生活立て直しのために、年貢の減免から始める彼の方法では武士の俸禄は上がらない。農民の生活が向上して、武士の生活が据え置かれることに、武士は我慢が出来なかった。むしろ武士にとっては、農民は困窮したままの方が、都合が良かったのだろう。
そこで様々な妨害があり、彼の生まれ故郷である小田原藩は、後ろ盾となる前領主が亡くなった後に彼を領地から追放する。先祖の墓参りさえ認めなかったのだ。既得権益を守ろうとする人々からは疎まれる、改革の人が二宮だった。
しかし、彼の方法により荒廃した農村が次々に復興した実績を隠すことは出来ない。彼は幕臣に取り立てられ、死ぬまで農村復興に尽力した。その思想は弟子たちによって、「報徳思想」という形にまとめられている。
経済と道徳の融合、経済的な自立と社会貢献の重要性などを説く二宮の思想はとても魅力的であり、夢中になって学んだものの、ただ一点、どうしても納得できない所があった。それは、彼の報徳思想の核となる部分。
彼は、混沌とした自然に対して、消極的な態度をとることを「天道」と呼び、積極的な態度を取ることを「人道」と名づけた。
さらに、「天道」に沿って生きようとする人間の心を「人心」と呼び、「人道」にそって生きようとする人間の心を「道心」と呼ぶ。「人心」とは我欲にとらわれた心のことであり、生産的ではないので、「道心」に沿った生き方をするべきだ、というのが二宮の思想だ。
農民だった彼にとって、自然は改良する対象だったからだとも言われているが、どうにも納得できなかった。
ところが、今から3年前に東北を津波が遅い、日本中が慟哭で覆われた時に、詩人でもある長渕剛が発表した『復興』という散文詩を読んだ。そのときに、ああ、こういうことかと得心がいったのだ。
憎いこうした問いかけから始まる長渕の詩は、そのあと、津波への怒りへ、家族を失った悲しみへと続き、そののち、人間参加へと移る。決して人間は自然の横暴には屈しないと宣言し、立ち上がってやると力強く雄叫びを上げる。そして、こう結ばれる。
憎い
私は 自然が憎い
憎い 憎い 私は 海が憎い
たわむれ 優しく 大きく 父のような海だったのに
恐くて憎くて たまらない 許せない 絶対に許さない
こんなに あなたを 愛して 生きてきたのに
なぜ 海よ あなたは 私たちを壊す?
なぜ 何もかも奪い去る?
なぜ こんなにひどい事をする?
今こそ このむごたらしい現実を直視したからには 瞳をそらさずこの詩を読んで思い出したのが、二宮尊徳の生家が貧農へと転落したきっかけだった。
ゆっくり立ちのぼってくる生き物の息吹に手を打ちならそう
どんなにささやかでもいい
勇気ある小さな者たちを どんどんグングンたたえるのだ
共に拳が上がったら 一目散に駆け上がれ
生存せよ!の方向へ駆け上がり
立ち向かうのだ
たとえ それが自然という憎き相手でも
私たちは決してひるまない
憎くても
怖くても
許せなくても
それでも
私たちは あの場所を
この国を
愛してやまないのだから
彼が5歳の時、近くの酒匂川が氾濫し、居住地全てが濁流で押し流されてしまった。田畑は全て流され、家も財産も何もかもが奪われ、それをきっかけに二宮家は没落へと突き進む。父はアル中となり10年後に亡くなった。一家は離散し、そこから二宮の苦労が始まった。
二宮にとっての原体験とは、濁流で流された故郷だっただろう。彼の心には、それ以来、ずっとずっと天への怒りが潜んでいたのではないか。
彼の説く「道心」とは「理性」のことなのだろう。人間の本能、欲求、感情もまた自然の一種である。自然の放任に任せたままでは、社会はうまく回らない。理性によって積極的に立ち向かっていかなければならない、という確信を、彼は自然による裏切り、そして大勢の武士の醜い嫉妬から、学んだに違いない。
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