映画「アクト・オブ・キリング」を観てきました。
きっかけは、名も知らないラジオ番組。夜8時頃、ラジオをつけながら食事をしていますと、とあるパーソナリティーが、この映画を大絶賛していたんですね。
正直、その解説を聴いただけで内容はほとんど分かってしまったのですけれども、内容を知っていても観る価値のあるのが素晴らしい映画であり、この「アクト・オブ・キリング」はどうやら、それだけの価値のある映画のようなので、行ったことのない駅から遠く離れた渋谷の映画館まで、足を伸ばしてきたのです。
映画について、少しだけ解説しましょう。
1965年、スカルノ大統領失脚と同時に、インドネシアでは共産党員と疑われた人々が100万人ほど、短期間に殺されました。まさに大虐殺。当時の大虐殺を主導した加害者たちの醜悪な自慢話を元にして作られたドキュメンタリーが、この「アクト・オブ・キリング」です。
大虐殺の実態については私が解説するよりも、「9月30日事件」というキーワードでお調べいただいた方がいいかもしれません。
事件について述べ始めると、映画について書くスペースが無くなりますので、ここでは簡単に触れるにとどめますが、この暴動の背景には権力闘争があり、中華系住民への反発があり、貧困層による現状打破という側面がありました。虐殺のきっかけとなったスハルト元大統領は、つい数年前までインドネシアで独裁体制を敷いていましたので、その影響が残るインドネシアでは、このときの事件を否定的にとらえることは今でもタブーとなっているそうです。
「アクト・オブ・キリング」は、その悪夢を容赦なくえぐり出します。
試写会には、スカルノ元大統領の三番目の奥様だったデヴィ夫人が出席。映画について下記のようにコメントを残していました。
★ デヴィ夫人、インドネシア大虐殺の真実を暴いた米監督に感謝
彼女が大絶賛している通り、この映画は観る価値のあるものです。
まず、映画としてよく出来ています。スプラッタ映画のような残虐なシーンは割愛されてほとんど出てきません。代わりに、出来の悪い特撮技術を使った惨殺シーンなどがはめこまれています、それが逆に(現実から離れられないという意味で)リアルで、笑えて、同時に気持ち悪いのです。
また、ドキュメンタリーという形式をとっているにも関わらず、素人のはず登場人物たちが、本職の俳優顔負けの、味のある、カメラ視線を意識した「演技」ができていて驚きました。これは予想外でした。
特に主人公のアンワルという男性には、心が惹かれました。まるでマンデラのような穏やかで知的な風貌。その風貌にふさわしい、含蓄あるセリフの数々。次第に過去をくやみ始めるその狼狽ぶりが、非常に人間的で、魅力的でした。
映画についての感想は、映画レビューでも読んでいただくとして、ここではなぜこういう映画が撮られ、世界中で放映されるにいたったのかについて、映画を見ながら考えたことを述べることにします。
この映画が製作されたのは2012年です。それまでインドネシアのスハルト政権をアメリカが後押ししていたこともありまして、スハルトの不利になる情報は西側諸国に現れることは、あまりありませんでした。東西冷戦の影響もありまして、「9月30日事件」で行われた共産党狩りは、インドネシアの過去の栄光として、世界とインドネシアで共有されてきたのです。
ところがこの映画では、インドネシアで共産党員に対する虐殺がいかに凄まじいことだったのか、共産党という理由だけで排斥しようとした人々が、いかに非道の限りを尽くしたのか、中国系の人々に対する差別がいかにひどかったのかを克明に描き出します。
これをイギリス・デンマーク・ノルウェーの3ヶ国が合同で製作し、世界中に配給したのです。
映画を作る上で必要なのは、「いい企画」と「監督の熱意」だけではありません。スポンサーがつかないといけない。「こういう映画をつくりたい」という企画があっても、それを応援しようとする資本の存在がなくてはいけません。
この手のドキュメンタリーは、あまり客が見込めません。現にWikipediaによれば、制作費は100万ドルもかかっているのに、アメリカでの興行収入は45万ドル。世界中で視聴されたので、もちろん興行収入はそれ以上となるでしょうが、それでも赤字なんではないでしょうか。
この、最初から大成功の見込めない映画製作に、ゴーサインを出したスポンサーたちのことが気になります。彼らはなぜ、このような判断をしたのでしょうか?
陰謀論に加担するつもりは毛頭ありません。どこかの会議室に世界を牛耳る資産家や政治家が一同に会して、世界をデザインするとか、ユダヤ資本が世界を操っている、などという妄想には与しません。
しかしながら、人々の雰囲気、全体意識が、人々を空気のようにからめとり、まるで強力な強い一個人の命令のような効果をすることは、あると思うのですね。
そうしますと、この映画の製作、配給が広く行われた背景には、西側諸国に蔓延する中国共産党へのアレルギーを、削ぎたいという大勢の資本家の意思が、背景に存在しているのかもしれません。
今の中国は、西側諸国にとっては脅威とはなり得ません。各国の共産党はもはや、欧米諸国の貧しい人々を救う手段とはなり得ず、かといって中国共産党が、かつてのソ連の代わりに彼らを糾合して欧米資産家を打倒の旗振り役を務める可能性は、"0"でしょう。
中国が目指すのはあくまで「中華秩序の再構築」ですので、日本を含む周辺国が、かつての朝貢国のように中国の権威を認め、その意思に服従しさえすればいい。そして大秦国(ローマ帝国)と漢が穏やかな交流を続けたように、中国と欧米が相対するあり方が理想です。
国境がなくなり、世界がひとつになる過程で、各地域の盟主的存在が、その地域ににらみをきかせるというあり方は、欧米諸国にとっても目指すもののように思います。特に欧米の資本家たちにとっては、自分たちの収奪的手法に協力する、奴隷主のような盟主の存在はありがたいはず。
そうしますと、資本家にとって大変都合のいい、この「中国」という存在を、現状のまま、欧米の民衆が受け入れられる下地を作りたいという意識が、資本家たちの根底にあるとは考えられないでしょうか。
実際のところ、ダライ・ラマの追放だとかチベット人、ウイグル人、法輪功信者への拷問だとか、中国では看過できない人権侵害が長年行われているのは間違いありません。広く知られているために、中国共産党のイメージは相当にネガティブなものです。
このイメージを民衆から払拭するためには、どうすればいいでしょうか?
「アクト・オブ・キリング」の舞台となったインドネシアは、そのキャンペーンのための道具として、大変都合のいい国です。欧米とも中国とも、そこまで密接な関係はなく、この国の過去の歴史を糾弾しても、大きなしっぺ返しを食らう心配はありません。
さらには、欧米とも中国とも離れた場所にあるために、客観的に、中国に触れずして、共産党、中華系住民への同情を訴えることも可能です。
「アクト・オブ・キリング」を観た人々の意識は、変容するでしょう。
「中国共産党というだけで、彼らを毛嫌いしていた自分たちは、この映画の中のフラマン(=ヤクザ)達と変わらないじゃないか」
とね。
今の時代にこの映画が製作され、世界中に発信された背景には、このような資本家たちの意向が底流にあるかもしれない、という見方は、少々うがち過ぎでしょうか。
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