2014年6月17日火曜日

「釣魚島」(尖閣諸島)という名は、中国人に「釣魚城の戦い」を想起させる

日中間の懸案となっているのが、尖閣諸島の領有問題。解決の糸口が見えません。

ところで、尖閣諸島で最大の島である魚釣島(うおつりしま)は、中国では文字が逆になり「釣魚島」と呼称されています。この名前、実は中国人、特に漢民族にとっては、心穏やかならぬ名前であることはご存知でしょうか。

宋による統一

西暦907年の唐の滅亡後、中国は散り散りバラバラとなりまして、さまざまな国に分裂して衝突を繰り返しました。

その中国を、960年、再び一つにまとめあげたのが趙匡胤(ちょうきょういん)という男。
この人はとてつもない名君でして、それまで前王朝の皇帝一族は抹殺されることが慣習であったのに、それを止め、侵略した国の王族のほとんどを貴族として遇しました。

皇帝になるときも、決して自ら望みません。前王朝の皇帝の補佐に徹していたところを、皇帝崩御による幼帝の擁立が重なって、人心の安定のために請われてようやく皇帝となったほどでした。終生、人を殺すのが大嫌い、という人物だったようです。

軍縮成功が仇

唐の滅亡の原因は、国境付近の国防軍の力が強すぎたことでした。野望を持った守備兵長が反乱をたびたび起こしたのです。そのために趙匡胤は、国家統一後、国防軍の力を削ぐことに努力するのですが、決して無理強いしません。長い時間をかけて話し合いを続けて、軍隊の力を少しずつ抑えることに成功します。

こうして再びまとまり、繁栄を誇った宋という国は、残念ながら1127年、異民族に北半分を奪われてしまいます。軍隊の力が弱すぎて、国を守ることが出来なかったのですね。

南に残った宋の片割れを「南宋」と呼びますが、南宋も1279年には滅びてしまいます。なぜならモンゴル帝国という超大国が北に現れ、大侵攻をしかけてきたからです。

釣魚城の戦い

ところが南宋は、たやすくやられはしませんでした。滅亡までの間、モンゴル帝国の侵攻に激しく抵抗します。その最大の抵抗の場所が「釣島城」。

場所は重慶市にあります。
抵抗は1243年から1279年まで36年間に及びました。

モンゴル帝国第四代皇帝であるモンケ・ハーンは、しびれを切らして親征(皇帝自ら戦場に赴くこと)するのですが、攻め落とすことができず、疫病にかかってしまい、この地で没してしまいます。

結局、南宋の首都陥落の後もしばらく持ちこたえた後に、釣島城は陥落するのですが、36年もの間、強大なモンゴル帝国相手に持ちこたえるのは並大抵の覚悟ではなかったことでしょう。

この地を数十年にわたって守り続けた数人の指揮官は、今でも名将と讃えられているそうです。

この偉業は中国ではよく知られています。

決して手放せない場所

つまり「釣島城」という名前は、漢民族にとって異民族への抵抗の象徴なのです。

アメリカ人にとっては「アラモ」のような、国家あるいは民族にとって、なにかこう、身体の奥から魂を揺さぶるような地名があるものです。

日本人にとっては「203高地」や「ミッドウェー」、「沖縄」がそれに当たるのでしょうか? あるいは象徴的という意味では、「関ヶ原」や「ヒロシマ」の名が私たちにもたらす影響の方が、近いのかもしれません。

偶然にも「釣魚城」と同じ名前を持つ島が、現在日本に領有され、中国との間で領有権を巡って争われているという現実。

平和主義の果ての、宋の崩壊、その最後となった「釣魚城の戦い」……中国人が、そこに様々な寓意を読み取っている可能性があります。

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