1997年、今は亡き筑紫哲也という左派のニュースキャスターが、知識人と高校生をTV局のスタジオに多数集めて、「ぼくたちの戦争'97」と題したディスカッションを行った。ノーベル文学賞受賞者の大江健三郎とか芥川賞作家の柳美里だとか、錚々たる的なメンバーが、そこにいた。
結論ありきの討論会だったと思う。
「戦争はいけない」
という若者たちの“想い”を電波に乗せようとした進歩的文化人たちの思惑がそこにあったはずだ。が、たった一人の若者によってそれは打ち砕かれた。
彼は、左派知識人の重鎮たちに向かって抜け抜けと、
「なぜ人を殺してはいけないのですか?」
と尋ねた。そして、そこにいた誰も、右往左往するばかりで、まともに答えられなかったのだ。
あれだけの知識人がそろっているのに、子供の質問にすらまともに答えられないのか……と、世間は嘲笑した。
大江健三郎はその後、朝日新聞に「誇り、ユーモア、想像力」と題したコラムで、このときのことを述懐して下記のように主張した。
テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席した知識人たちは直接、問いには答えなかった。/私はむしろ、この質問に問題があると思う。まとまな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。(中略)人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。 ―(「なぜ人を殺してはいけないか(7)――大江―永井論争」より孫引き)―答えなかったのではなくて答えられなかったのだろうと、テレビを観ていた人たちは大江を嘲笑した。
知識人達が誰一人、子供の素朴な質問に答えられなかったという事実。
偉い先生相手によくあんなバカけた質問をすることが出来たな、という感心。
雑誌などでいろいろと取り上げられたこの事件のあの場に、まさか今はてな村でもっともホットなブロガーの id:netcraft がいたとは……あくまで彼の語る内容が本当だと仮定しての話だけれども、びっくりした。
★ 「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない
私は福島に住んでいたけど、高校生を募集する案内をみて「出演したいです」と番組に手紙を送った。番組から実家に電話があり、私の出演が認められた。
上記記事より転載 |
さて、本論。
なぜあのとき、左派知識人たちは子供の質問に答えられなかったのか?
彼らも伝統に寄りかかっていた
そもそも左派=革新主義者たちは、旧来の伝統的価値観に疑いを持つことを奨励してきた人々だ。天皇陛下への敬意、報国精神、男女の伝統的秩序などを、ことごとく否定してきた。伝統的価値観には、理由のないものがたくさんある。保守主義者たちは、基本的人権などに大きく違反しない限り、伝統的価値観は出来るだけ尊重していきましょう、という立場だ。
ところが革新主義者たちは逆で、理由のないものならば尊重する必要はないだろうと主張する。
ところがだ。革新主義者たちのもう一つのスローガンである「戦争反対」自体、「殺人はいけない」という伝統的な価値観にもとづいたものだった。伝統的価値観を否定し続けてきたくせに、彼らの主張自体が伝統的価値観に依拠したものだったというこの矛盾。
大江の、
まとまな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。という言葉は、「まともな国民ならば戦争がおかしいと口にだすことを恥じるものだ」のような主張と、本質的に同じじゃないか。
左派が「戦争はいけない」ことは当然のことだ、当たり前のことだと主張する根っこに、彼らが否定してきた伝統的な価値観があった。その矛盾に目を背けていたことが、あの場所で暴露されたのだと、思っている。
どう答えるべきだったか
私だったら、まず若者に尋ねるだろう。「『人を殺すことがいけない理由』というのはあまりに漠然とし過ぎている。まずあなたに尋ねたい。物を盗むこと、暴力をふるうこと、嘘をつくこと……さまざまな『いけないこと』とされていることがある。そういう禁忌すべてに、理由がないとあなたは考えているの? それとも、貴方自身に『人を殺したい』という強い衝動があってたまらないのかな? それで「人を殺す」ということがなぜ悪いのか知りたくてたまらないとか?」
後者と答える勇気のある人は、あの場ではまずいないだろう。もしも後者ならば、精神治療が必要だよ、と嘲笑すればいい。
前者だったならば、
「『人を殺すのが、いけない理由』について、君は質問した。ほとんどの人は『人を殺すことは悪い』と思っている。でも、あなたはその理由がわからない。そうだね?」
とさらに畳み掛ける。
そうすると、「わからないわけじゃなくて、理由を知りたいだけだ」とか「なんとなくわかるけれども、はっきりと言葉に出来ない」とか言い始めるだろう。そこで、
「『人を殺すことが悪い理由』について考えてみよう。そもそも『悪い』とは何だと思う?」
と、彼の言葉を言い換えて、尋ねてみればいい。昨今話題のサンデル教授ばりに、「正義とはなにか」について語らせてもいい。
質問者自身に正邪を定義づけさせた上で、殺人は「悪」の範疇に入るのかどうかを彼自身の口で語らせれば済んだのではないだろうか。
議論の前提をひっくり返そうとする相手自身に、その質問を別のわかりやすい言葉で言い換え、さらに、要素に分解し、それぞれの意味を定義づけさせる、というのは討論上のテクニックの一つ。「いけない」という曖昧な言葉ではなく、「悪」というより明確な言葉にすればよかったのだと思う。
大江健三郎のこの件にせよ、吉本隆明のオウム事件との関わりにせよ、所謂知識人という人種が如何に「理性オタク」であるかということが明白です。「何故人を殺してはいけないのか?」という単刀直入の問に、理窟を捏ね回しているようではどうしようもありません。実際の倫理的判断には時間的猶予はありません、即座に判断し行動しなければなりません。答えは単純です。
返信削除「人格に背くから悪である、人格は愛(慈愛)で成り立っている。」
「善悪の判断に迷うことがあれば、愛があるかと自問すればよい。」
これ以上の答えはないはずです。人は法律を犯したから罰を受けるのではありません、人格を犯したから罰を受けるのです。法律は最低限のルールに過ぎません。なぜ桝添知事が失脚したを考えればわかることです。彼も所謂知識人で、法に触れるようなことはしていないと主張しましたが、世論は許しませんでした。都民としては、悪いことはしない普通のことを期待したのではなく、善いことをする「人格者」を期待したのです、
三島由紀夫は所謂知識人(リベラル)のことを「主体なき理性」と言って揶揄しました。知識人には情・意が欠落した人間失格者が多いのです。
はっきり言おう。すごく簡単なことだよ。「人を殺すな」この法律のおかげで、あなたがたもわたしたちも殺されずに済んでいるのだよ。だから「人を殺してはいけない」のだよ。
返信削除「盗め」こんな法律があれば、商売は、スーパーマーケット、コンビニ等々は成り立たないでしょ?
だから「殺せ」なんて法律はあり得ない。以上!!!