2014年9月2日火曜日

ステージが変わると、復讐する機会は失われる 下

昨日はひどい風邪をひいた。デング熱ではないようなので一安心だが、季節の変わり目である。みなさま、ご用心を。

さて、二日前の記事の続きです。

社会人となって会社で経験した精神的な苦痛――ブラック企業では肉体的な暴力もあったが――を受け、その場所から逃れた後に私は彼らにどうやったら復讐できるだろうかと、数年の間考え続けたのだが、やがてそれがどれも実行不可能であることに気がついていく。

いや、最初から気づいていたのだが、それを納得して、あきらめるのに数年間かかったと言ったほうがいいかもしれない。

  1. 暴力による復讐
  2. 法律による復讐
  3. 将来の復讐

上記3点について、それぞれ書いてみよう。

1.暴力による復讐

時々、ストーカーによって女性が危害を加えられたという記事が話題となる。そのニュースを観るたびに思うのは、
「世の中、暇とカネがある人間がいるものだな」
ということだ。

ターゲットをしぼりこみ、獲物が人気のない場所を歩くのを執念深く待ち、襲いかかる。その間、彼らはどうやって生活費を稼いでいるのだろうと、不思議に思う。

結局、彼らがああした犯行に及ぶのは、それをバックアップしてくれる家族や財産の存在があるからだろう。とてもじゃないが、私にはそんな余裕がなかった。

それに私には、やりたいことが多すぎた。本を読みたい、本を書きたい、デートもしたい、映画も見たい、旅行もしたい……こうしたことをすべて諦めて復讐のために彼らの後をつけ回す……考えただけでぞっとした。

そもそも、犯行を終えた後、どうするか。捕まってしまえばおしまいだ。かといって人知れず犯行を終えて、その後一生、犯行を告白せずにいられるか?

私には無理だ。そもそもブログを書く人間という輩は、自己表現欲求が人一倍強いものだ。そんな人間が、一生秘密を抱えて生きていく、という生き方は難しかろう。

それに、犯罪を犯した後、良心の呵責に苦しめられずに生きていく将来が、どうしても思い浮かばなかった。憎しみで相手を恨む気持ちは、相手を痛めつけることで晴れるだろう。だがその後はどうなる? 苦しむ相手への後悔の念を抱えながら残りの一生を送るのも、ゴメンだった。

2.法律による復讐

税務署に務める友人に、経費のごまかしについても相談したが、その罪を立証するのには手間暇かかる割に、敵に被害を与えるまでにはいたらないだろう、とアドバイスされた。

違法残業について、労働基準監督署や法テラスで相談したことがある。結果分かったのは、日本では労基法に違反した経営者に懲罰的な罰則を与えられることはないということだ。

また、弁護士に相談したところ、PTSDで傷ついたことなどを訴えようとしても、それを認められるまでに相当の時間とカネがかかるし、労力の割には得る対価は少ないということだった。

先日、下記のニュースが報道された。

 牛丼チェーン最大手「すき家」の労働環境改善に関する第三者委員会の調査報告書は、過酷な労働実態を浮き彫りにしました。
 違法残業や休憩なしなど、労働基準監督署から受けた是正勧告は、12年度から約2年間で64件にのぼります。
労働基準監督署は、すき家ほどの悪質な企業に対しても、せいぜい是正勧告をする程度なのだ。ましてや、私一人が訴えても、個人事務所にとってはへでもあるまい。

3.将来の復讐

「盲亀の浮木」
という言葉がある。

海底には、百年に一度海上に浮上して呼吸をするという盲目の亀が住んでいると言われている。それが、たまたま海に浮かんでいた浮木の穴に、すっぽりと頭がはまってしまう、という偶然を指す。

ほとんどあり得ない僥倖を夢見ることは、不幸だ。成果を得られることはほとんど無く、成果を得られるまでに夢見た時間は全て無駄に終わり、人生をあたら無駄にしてしまうだろう。

もっとも、世の中というものは狭いもので、縁のある人間とは、いずれどこかで必ず出会う。復讐の機会が訪れないとは言えない。その時に向けて、牙を研ぐことはムダではあるまい。

それにだ。もしも功成り名遂げた後には、失うものが多すぎる。復讐のために成功した後に実際に復讐する人が少ないのは、地位も名誉も得た今、昔自分に害を与えた人間に関わってその地位を失うことがバカバカしく思えるからだろう。

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こうして、一つ一つの方法を吟味してみると、そこで受けた屈辱を、その場所を逃れた後に晴らすことは、ほとんど不可能であることに気がつく。

「やられたらやり返す」
ことは、現実の社会の中ではあまりに難しい。だからそれに憧れて人は『半沢直樹』を応援するが、半沢は架空のヒーローであって現実にはいない。

苦痛を与えられたことを許す必要はない。けれども、受けた屈辱を晴らす機会を探し求めるには、人生はあまりに短い。もちろん、屈辱を晴らす機会はいつか訪れるかもしれない。それならなおのこと、その時のために力を蓄える時間が必要だろう。

結局のところ、ゲームのステージを上がれば、次の敵を倒すことに集中しなくてはならない。前のステージでやり残していたことがあっても、そのステージにいながら前の敵を倒すことはできない。そのステージにその敵はいないからだ。あきらめることが肝要なのだろう。

だが、
「あきらめる」
ことは悪いことではない。それは、一度挑戦した勇気を持っていたという証であり、挑戦した後、できることとできないことを見極めて、撤退する決断力を持っているという証でもあるのだから。


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