「バカな」
と思わずつぶやきました。
ショーペンハウエルはともかく、友人を失い生前は社会に認められずに狂人となって死んだニーチェのような人生の失敗者が参考にした本を読んで、どうすると。
……こう皮肉な気持ちで本を手にとったのですが、5分後、私はその本を購入することを決めました。なぜなら、「訳者あとがき」を読んで、肺腑をえぐられるような気持ちとなり、がぜん興味を惹かれたからです。
訳者は著名な心理学者・加藤諦三。彼の書いた文章だけでも、読む価値があると思うので、抜粋してご紹介します。
加藤氏のあとがきの書き出しは、こうです。
現代、現実の社会の中でどう生きていいのか自信のない人が多くなっている。上司の関係をどうするか? からはじまって、ついには恋人とどう付き合ったらよいのかわからないという人までいる。「自信がない」ことに悩む若者はたしかに多いです。情報が多くなった現代、夜郎自大的に過信できた昔と違って、自分と同じ年の自分以上の才能をすぐに見つけることが出来るようになりました。自分が特別な存在ではないことをつきつけられる時代に、自信は持ちにくいかもしれません。
加藤氏は自分が訳した本には、「どう生きたらいいか」に悩む人にとっての処世術が具体的に述べられていると指摘します。
一時モラトリアム人間ということがしきりにいわれた時代があった。要するに青年たちが職業的修養を怠っていつになっても学生気分を抜け切らないで、自己限定できないということである。自己限定とは「私は銀行員である」とか「私は画家である」とか「私は先生である」とか自分を限定していくことである。青年には無限の可能性があるけれども、そこから自分に適した職業を選択するべきだと加藤氏は考えますが、決断できず、いつまでも自己限定しない者がいることも認めます。それは「方向感覚」を失っているからだ、精神分析医の説を紹介し、その原因は自己疎外にあると述べます。
あるモラトリアム人間である。卒業することができない。職業を選択すると「自分が小さくなっちゃう」と感じている。自己万能感に執着しているのである。卒業できないどころか、定年退職してからもまだ自分を決められないでいる年寄りがいる。
このような人は社会的役割を担うことをずーっと拒否してきたひとである。社会的役割を担うと責任がついて回るからである。そこで責任を逃れるために現実から逃避するのである。
あるいは社会的役割を受け入れてしまうと、その点から自分を評価されるのが怖いから社会的役割を拒否するのである。自分が望むほど重要な役割を担えないので職業を重要と認めることを拒否する。
このように職業選択をして社会の中で生きることを、自分の可能性を小さくしたという人は、現実の自分の人生を具体的にかつ真剣に考えていない。ただ夢見ている人なのである。なかなかきつい言葉でしょ?
今の自分がやっていることではなく、もっと別のことをやりたいと考える人は世の中に多いと思いますが、そうした人を全否定する加藤氏の冴えた舌鋒に絶望感を感じました。
ただ、すでに何者かになったと自信を持って言える人は、世の中にそうそういません。私の年ですと、役職を得てそれなりに活躍している友人もいるのですが、それでも彼らが、
「自分は◯◯である」
と自信を持って言い切る人間ばかりかと言うと、そんなことはないのです。
転職を考えている友人もいますし、自分の生き方に悩んでいる友人もいます。私自身も大いに迷う者の1人。そうした人々を加藤氏は「甘い」と叱咤します。的を射ているだけにつらいですな。
もともと加藤氏の本には、大学時代に親しみまして、いろいろと影響を受けました。当時、私も自信がなくて悩んでいたのですが、加藤氏は、それは自分の人生ではなく親の望む人生を生きているからだと述べるのです。
おっしゃるとおり、親の期待通りの人生を送ろうとしていたのが自分でして、それに気づいた瞬間大変な嫌悪感を世の中すべてに抱いたのを今でも覚えています。今なら「そういう考えもあるよね」と距離を取って読める彼の本は、青年期に読むには毒があり過ぎるかもしれません。
昨日少々気が滅入ることがありまして、今日のこの加藤氏の言葉は、たいへんこたえました。だからこそ、読む価値があるのかもしれない。そう思いまして買った本が、下記の本です。
まだ読んでいないので、海の物とも山の物ともつかないのですが、ご興味のある方は、どうぞ。アマゾンではもう、古本しか売っていないので、手に入りにくい類のものと思われます。
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