学生の頃に、ディベートやディスカッション、スピーチなどをひと通り学びました。
私はディベートが好きでした。相手の様々な主張に有効な反撃を加えて、一つ一つをつぶしていくことが面白かったからです。
その頃、会話の技術の中ではディベートが最も実用的だと思っていました。社会を変えるためには、敵の過ちを指摘することが重要だと思っていたからです。ディベートにはいろいろな技法があります。技法を駆使し、反駁の材料を用意して、ひたすら相手の論点の欠点をえぐりだす。相手が反論できずに困るのを見るのが快感でした。
これに対して、スピーチのことは、少しバカにしていました。観客がいるとはいえ、敵とする相手もいない場所で、話すだけ。単なる自己満足でしょうと、重要視していませんでした。
ところが社会に出ると、議論で相手を打ち負かすのは厄介な事態を引き起こすことが多いことが分かるようになりまして、議論はひかえるようになりました。
議論自体は、楽しいので好きです。質問をなげかけ、回答をもらい、その矛盾点について質問をすることで、お互いの知識が深まります。問題は、相手がこうしたやりとりをするに値しない人物のとき。逆恨みされますし、矛盾のある主張を平気で吐き、指摘されても過ちを認めないので話がまったく前に進まなくなります。こうした人は案外多く、話していても時間が無駄になるだけです。
今ではむしろ、一歩ひいたスタンスです。相手の知識がある程度あり、筋の通った主張をしていて、過ちは過ちと認められるタイプならば議論を続けますが、道理のないことを主張する相手とは、議論自体行わないようにしています。
それに、たとえば昨今の保守と革新の議論を傍観していても分かるように、この手の議論に決着がつくことは、ほぼないと言っていいのです。
学生時代、ディベートは社会を変えるために有効な手段だと思っていましたが、どうやらそれは違うらしいと思うようになりました。
世界を変えるためには、反対勢力の矛盾点を指摘するよりも、傍観者の大多数にスピーチで共感をしてもらうことの方が、より効果的なのですね。反対勢力が自分の意見を変えることはほとんどありませんが、観衆を味方にすることは十分可能です。
では、ディベートにはなんの意味もないのか、という点ではそうではありません。ディベートは、相手が自分の代わりに、自分の主張の矛盾点を探してくれます。第三者の視点で、議論の精度を確かめてくれる……大変有難いことです。自分がいかに分かっていないのかを知ることができるのですから。
学生時代に、議論が世界を変え、演説は自分のためにあると思っていましたが、そうではありませんね。むしろ議論は自分のためにあり、世界を変えるためには演説の技法を学ぶべきでした。学生時代に、演説について、もっと身を入れて学んでいたら、今が楽だろうに、と思ったりします。
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