2014年11月20日木曜日

どうすれば、高倉健のような生き方ができるのか

高倉健が亡くなった。

かっこいい男の代名詞。

稀有なスターが亡くなると、記憶にある彼らを鬼籍へと移し替えねばならない。細い手で胸を押さえつけられるような息苦しさを覚える。

彼の演技は随分酷評されてきた。大根役者と言われたこともある。しかし経験を経て、彼の演技は本物へとなっていった。演技の勉強に余念がなかったというから、自分の味を出しながら、監督とカメラの向こうの観客にどう満足してもらえるか、考え続けてきたのだろう。

残念ながら、彼とは生きていた時代が異なるので、映画を観て彼の演技に夢中になった経験はない。ビデオなどをいくつか観て、カッコイイなとおもったくらいだ。ただ、彼と過ごした映画人たちが好んで語る高倉健のふるまい、たたずまいを聞いて、強く憧れたことはあった。

彼がどのような人物だったのかは、Wikipediaに詳しくまとめられている。

★ 高倉健 人物像

Twitterなどを観ていると、彼の生き方をカッコつけていると感じた人もいるようだ。それは当然だと思う。彼は意図的にカッコつけて、生きていたのだから。

歳を食ってくると、若い頃に否定していた生き方が避けられないことが否が応でもわかってくるだろう。そのうちの一つに、社会の中で生きる上では何がしかの「演技」が必要だというものがある。わりきらねばならない。あきらめなければならない。

自分の感情をあざむき、他人にこう思って欲しいと思いながら行動するというのは大変卑しいことだと子供の頃から思っている。だが、他人をどうにかして利用しようと考える人間と一緒に働かねばならない場合に、多少の演技で抵抗していかないと、喧嘩をして恨まれるか、自分を押し殺してうつ病になるかしかなくなってしまう。

卑近な例だが、上司が次々に新しい仕事を部下に押し付けてくるような職場にいたとする。自分の仕事を責任をもって完遂するためには、忙しいフリをして仕事をふられるのをさけなきゃならない。プライドの高い年上の女性同僚が自慢話を始めたら、仕事の手を止めて、さも関心があるように振る舞わなければならないこともあるだろう。上司をバカにしてくる部下には、怒鳴りつけたい気持ちを抑えて笑いながら接しなければならないこともある。

しかし、自分の意思を殺して行動する演技は、さじ加減が難しい。

過剰な演技はわざとらしい。あきらめてポーカーフェイスに徹するという方法もあるが、感情がないと嫌われることがある。迎合さえしていればいいのかと言えばそうではない。軽蔑され、侮られるもととなるからだ。

自分を安売りせずに、他人を尊重していることを伝えるための行動は、考え始めると難しい。

その中で、高倉健の日常生活の「演技」は見事だった。映画の中の演技も素晴らしかったけれども、これだけ長い間、日本中から注目され続けて生きていながら、悪いうわさをほとんど立たせなかったのは凄いことだ(江利チエミと結婚、離婚したときに、義姉との間で一騒動あったようだが)。

日本中の人から四六時中見られながら、高倉健は、劇中の登場人物と同じ、無骨で律儀で謙虚な人物像を貫き通した。これは、並大抵の努力ではできまい。

高倉健の近所に住んでいた板東英二が高倉健の実像を語っている。

★ 高倉健さん死去に板東英二「あの人は寡黙でもなんでもない」
あの人は寡黙でもなんでもない。何時間でも話します。プライベートな話も。(元妻の)江利チエミさんとの話や東映から脱走した話。やんちゃした話とか。健さんがヤクザ映画に出ていた頃、愛媛の松山へロケに行ったら黒服100人くらいがずらっと一列に並んで『ごくろうさまです!』と言ってきた。『仕事で(ヤクザ役を)やってるんで』と言うと翌日、白のトレパンにシャツ姿の人が100人。そういうことじゃないんだよ! とか……そんなこと延々と話してるんです。
本当はそんな人なのだろう。親しい人には快活で、お喋り好き。それでいながら彼は彼を慕う人の前では「高倉健」を演じ続けた。いいなぁ。

どうすれば彼のような生き方ができるのかわからない。まずは、できることからマネてみようか。

ちなみに上記は高倉健の愛読書で、彼はこの本をことあるごとに読み返していたらしい。まさに座右の書。読みたいが、今の段階で46,000円の値がついているので、断念せざるを得ない。

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