古代の人物は評価が確立していますが、時代が近づくに従って一般の人々に名が知られることは少なくなります。顔真卿の名前ならば、世界史の授業で習って知っている人は多いはず。でも、呉氏の名を高校までの授業で習うことはありません。そのため、書道に興味のある人以外にはほとんど名前が知られていないのは、惜しいところです。
彼の人生について、詳しくはWikipediaで読んでいただくことにしまして、このブログでは簡単なご紹介と、彼がなぜ「四絶」と称されたかについて、ご案内したいと思います。
呉氏は浙江省安吉県に生まれました。
エリートの家系で裕福でしたが、1850年の太平天国の乱に17歳の時に巻き込まれます。故郷を家族とともに離れて避難したものの、弟と妹、許嫁を相次いで亡くしました。
そのあと、働きながら書の修行に明け暮れましたが、生活は苦しく、戦乱の中、結婚後も家族を養うのに一苦労したようです。ただ彼は、その困難に決して負けることはありませんでした。何人も師匠を変えながら各地を転々としつつ、「書」「詩」「画」「篆刻(てんこく)」に関する様々な技法を貪欲に学んでいきます。
50歳を過ぎてから、段々と世の中に認められるようになり、次々と仕事の依頼がくるようになりました。遅咲きの人だったのです。
そのあと、彼の名前は篆刻家として非常に有名になります。1904年に丁仁・王禔・葉銘・呉隠という4人の芸術家が、篆刻を中心とする国際的な学術団体・西泠印社(せいれいいんしゃ)を設立したときに、わざわざ招かれて60歳にして初代社長となったほど。
そのあとも活躍を続けましたが、 1927年、南京事件の起こった年に脳卒中のため84歳で亡くなりました。
さて、彼が「四絶」と称された理由です。ここで言う「絶」とは、「絶対的な」「並優れた」という意味です。 つまり、文人が身につけなければならないとされる四種の芸術分野「書」「詩」「画」「篆刻」に、並外れた技能を発揮したから、彼は四絶と呼ばれたのです。
どのような作品を生み出したのか。まずは「篆刻」から見ていきましょう。
木や石に文字を彫りつける……「書」の技法も「彫刻」の技法も必要となる、奥深い世界です。
呉氏が得意としたのがこの篆刻でした。その作品がこちらです。
彼は「鈍刀(どんとう)」という、あまり切れない彫刻刀を好んで使いました。鈍刀は、切れ味が悪いために削り過ぎることがありません。力は必要ですが、時間をかけてコツコツと掘れば、理想通りの彫刻が出来るという利点があります。
苦労の多い人生を歩んだ呉氏に適した道具だったのでしょう。 しかし、彫り過ぎによるものでしょうか、肩を壊してしまいまして、50歳を過ぎてからの作品は大変少なくなります。彼の篆刻の名品は、有名になる前のものが多いようです。
春秋戦国時代に花崗岩に刻まれた文字である「石鼓文(せっこぶん)」 を模した、「猟碣集総聯」と言われる書体で書かれた文字は、独特の美しさがあります。
「呉先生の作品が欲しい」
という依頼に応えるために、作詩に余念がありませんでした。
彼の作品の一つが、これです。
鮮やかなる陽春に和し、 また狷なるを顧みん
耳に充てれども簫管の徹するを聞かず
琵琶、李亀年の座するかと疑う
とでも読み下すのでしょうか。
むしろの上で音楽家が曲を奏でている、その曲を聞きながら、春の日に照らされ、己の短気を反省していた。ふと耳をそばだてると、いつの間にやら簫管の音が聞こえない。琵琶の音のみが聞こえてくる。その美しさは、音楽家として名高い唐代の李亀年(りきねん)が奏でているようだ。
とでも訳すのでしょうか(不学のため、誤っていればコメント欄などで教えてください)。
こうして彼の作品をほんのわずかでも眺めて見ますと、彼が清朝最後の文人と呼ばれ、四絶と称されたのもなんとくなく分かります。すごい人です。
参考:「書道偉人物語」 「「書道ジャーナル研究所」」など
そのあと、彼の名前は篆刻家として非常に有名になります。1904年に丁仁・王禔・葉銘・呉隠という4人の芸術家が、篆刻を中心とする国際的な学術団体・西泠印社(せいれいいんしゃ)を設立したときに、わざわざ招かれて60歳にして初代社長となったほど。
そのあとも活躍を続けましたが、 1927年、南京事件の起こった年に脳卒中のため84歳で亡くなりました。
さて、彼が「四絶」と称された理由です。ここで言う「絶」とは、「絶対的な」「並優れた」という意味です。 つまり、文人が身につけなければならないとされる四種の芸術分野「書」「詩」「画」「篆刻」に、並外れた技能を発揮したから、彼は四絶と呼ばれたのです。
どのような作品を生み出したのか。まずは「篆刻」から見ていきましょう。
「篆刻」
中学校までしか書道を習っていないならば、篆刻の存在について知らない人も多いかもしれません。高校で書道を選択すれば、一度は経験するんじゃないかな。「てんこく」と読みまして、早く言えば「書」と「彫刻」の結合芸術のことです。木や石に文字を彫りつける……「書」の技法も「彫刻」の技法も必要となる、奥深い世界です。
呉氏が得意としたのがこの篆刻でした。その作品がこちらです。
彼は「鈍刀(どんとう)」という、あまり切れない彫刻刀を好んで使いました。鈍刀は、切れ味が悪いために削り過ぎることがありません。力は必要ですが、時間をかけてコツコツと掘れば、理想通りの彫刻が出来るという利点があります。
苦労の多い人生を歩んだ呉氏に適した道具だったのでしょう。 しかし、彫り過ぎによるものでしょうか、肩を壊してしまいまして、50歳を過ぎてからの作品は大変少なくなります。彼の篆刻の名品は、有名になる前のものが多いようです。
「書」
彼は篆刻を一番得意としていたため、「書」に「篆刻」を応用した独特の文字を書くのを得意としていました。春秋戦国時代に花崗岩に刻まれた文字である「石鼓文(せっこぶん)」 を模した、「猟碣集総聯」と言われる書体で書かれた文字は、独特の美しさがあります。
「画」
彼は絵に、書で学んだ技法を応用しました。草書体をさらに崩した「狂草」という書体がありますが、この技法や、篆書(てんしょ)と呼ばれる秦代以前の絵のような文字を書く上で学んだ技法などを惜しみなく画に応用したため、花や山、岩などが、絵であるのに文字のような独特の風味があります。「詩」
中国の文人は、必ず漢詩を作ることができます。彼もまた、「呉先生の作品が欲しい」
という依頼に応えるために、作詩に余念がありませんでした。
彼の作品の一つが、これです。
泠然一曲奏当筵冷然として一曲、まさに筵(むしろ)にて奏でたり
和鮮陽春顧亦捐
充耳不聞簫管徹
琵琶疑坐李龜年
鮮やかなる陽春に和し、 また狷なるを顧みん
耳に充てれども簫管の徹するを聞かず
琵琶、李亀年の座するかと疑う
とでも読み下すのでしょうか。
むしろの上で音楽家が曲を奏でている、その曲を聞きながら、春の日に照らされ、己の短気を反省していた。ふと耳をそばだてると、いつの間にやら簫管の音が聞こえない。琵琶の音のみが聞こえてくる。その美しさは、音楽家として名高い唐代の李亀年(りきねん)が奏でているようだ。
とでも訳すのでしょうか(不学のため、誤っていればコメント欄などで教えてください)。
こうして彼の作品をほんのわずかでも眺めて見ますと、彼が清朝最後の文人と呼ばれ、四絶と称されたのもなんとくなく分かります。すごい人です。
参考:「書道偉人物語」 「「書道ジャーナル研究所」」など
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