2014年12月22日月曜日

Yahoo!映画レビューから献辞が削除されたという記事を読んで

松嵜真一という映画監督が、「映画は人を殺してもいいのか?~映画「告白」の裏側で亡くなった若手スタッフについて~」という記事で、映画撮影に携わっていた1人の若者の死を悼んでいる。

監督の裁量のもと、過酷な労働環境を強いられ、保障されないまま人々が酷使させられている現状を憂いた記事だ。昨今のブラック企業の問題にもつながる根深い構造だと思う。

詳しくは元の記事を読んでいただくとして、私が気になったのは、メインテーマとずれた、とある箇所だった。
けれどもやはり、私はそんな煮え切らない思いをどうにかしたくて、「告白」の公式ホームページで、感想を寄せてくださいと、Yahoo!映画レビューにリンクが貼られているのを見つけて、そこに上記の「後藤くんへの献辞の件」について書き込んだ。しかし、どういうわけだか、その書き込みはその数日後にはキレイさっぱり削除されてしまったのだ。Yahoo!映画レビューでは、1度レビューを投稿した映画には、再びレビューを投稿することはできず、削除された文章をもう一度書き込むことはできなかった。私はその時はじめてこの件に関して、なにかひっかかりを覚えはじめた。
確たる証拠はない。Yahoo!映画レビューが、「これこれこういう理由で削除しました」と明確に説明しないためだが、たぶんこれは、労働基準法違反が蔓延している映画製作の現状を知られることは一部の人間(多分映画政策配給会社)にとって都合の悪い書き込みだったから、削除させたのではないかな、と邪推する。

日本のサイトでは、この手の壁にぶつかることが比較的多い。ある程度の跳ねっ返りは許容してくれるけれども、根本に打撃を加えるような発言は、決して許してくれないという不寛容性がある(私も何度か経験した)。

楽天にせよ、Yahoo!にせよ、日本のIT企業が日本で善戦をしてくれている。それは外資系に日本の市場を席巻されることよりははるかに嬉しいのだけれども、彼らを根っこの部分で信用出来ないのは、こうしたところだ。日本のITサービスでは、企業や大きな団体に不利なことを書き込もうとすると、それが真実であるかどうかに関わらず、削除されたり発言の制限を受けたりすることがある。

無論、GoogleやAmazonなどの外資系IT企業がすべて信用できる、ということではない。彼らの検閲もかなりえげつない。でも、少なくとも、日 本のIT企業よりも、「事実をできるだけそのまま伝える」「できる限り検閲をしない」という使命に、もっと真摯に向き合い、違法行為を摘発する声以外の雑音には、拘泥しない、できるだけフェアであろうとする姿勢が強いように思うのだ。理念への信頼。私はこのブログで、何度かこのテーマを取り上げてきたが、どうしてもそこにこだわってしまう。

Googleが「邪悪になるな」という理念を社是としていることは有名だが、この種の形而上的な理念を掲げているIT企業は日本ではそれほどメジャーではない。実利的な、「暮らしをもっと豊かにする」などの直接社会に利益を与えることを目標として掲げるところが多い。

それはそれで一つの考えだと思うが、やはり少し、寂しいと思う。キリスト教原理主義者達が建国したアメリカでは、真実を人間が曲げてはならない、という想いを国民の中で共有している、という強みがある。例えばIT企業の中でもレビューの書き込みを監視する人間というのは現場の末端に属すると思うのだが、この現場レベルの人々の間に、自らの権利の濫用を防ごうという強い意志が働いているのではないか。

それに比べると、仏教国である日本は因果論に基づく、関係性の中でものごとをとらえようとする傾向が強いのだろうか。キリスト教の神のような絶対的なものを想定せず、存在の根拠を関係性の中に見出す思考法に慣れ親しんだ我々の中には、理想に殉じる気概を持つことを揶揄する風潮がアメリカの人々よりも強いように思う。

いや、それならば、ヨーロッパ発のインターネットサービスで、もっと世界を席巻するものが出てきてもおかしくないか。ITサービスのほとんどがアメリカ製であり、信頼を勝ち得ていることを考えると、SNSサービスを「フェアに」提供するための人材としては、キリスト教徒、というだけでは弱く、キリスト教原理主義的な、理念への狂的な信頼が必要なのやも知れず、そうした資質はアメリカ人にのみ多く宿り、その結果彼らのサービスが世界中で愛されている……そうした一面があるように思われる。

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