「第3章 男の賭け」の概要
この章で取り上げられた「男」は、『赤ひげ診療譚』の語り手である保本登(やすもとのぼる)と、彼の目を通して語られる赤ひげ・新出 去定(にいで きょじょう)です。例によって章の10ページのうち『赤ひげ診療譚』のあらすじで4ページが費やされています。『赤ひげ診療譚』 は有名な作品ですので、ご存じの方も多いでしょう。江戸時代、エリート医師の卵が、貧民街で地道に活動する医師のもとで修行を積むうちに、真実の医師道に目覚める物語です。
山本周五郎は反権力志向が強い作家で、宮本武蔵などの歴史上の英雄・豪傑を否定すべきもの・唾棄すべきものとして描きました。そんな山本が、英雄・豪傑を裏返して描いた巷のスーパーマンが新出去定です。『男としての人生』の著者木村は、赤ひげをいつの世にも実在する隣人だと述べています。
『赤ひげ診療譚』の主題――貧困と病苦とに立ち向かうという事業は、人間にとってしょせんは"徒労"に属することなのかもしれない。しかも去定は、その徒労に己を賭けて生きる。徒労の積み重ねの中から希望の萌芽を捜し出そうとする。
また木村は、山本周五郎は、徒労に賭けた男の生き様を称揚し、不条理と闘う市井の人々を賛美していると説きます。
なぜ山本が、徒労だと分かっていてもそれに専念する人々を賛美するのか? それは、世の中では成功する人よりも無駄な人生を歩む人々が圧倒的に多く、それでも真面目に誇りをもって仕事をする大多数の無名の人々によって、この社会は支えられている、という諦観が山本にあったからのようです。
「第4章 男の宥(ゆる)し」の概要
この章では、『藪の陰』と、『ちくしょう谷』という作品の2編が取り上げられます。14ページの章のうち、作品のあらすじに10ページが費やされていました。
まずは『藪の陰』から。
婚礼の日に、藩の財産管理を任されていた安倍休之助は腹部に大怪我を負わされますが、誰に襲われたのか、なぜ襲われたのか、決して語ろうとしません。
どうやらその背景に、藩の公金横領があったらしい、という噂が流れます。
安倍の妻になったばかりの由紀は、実家から離縁を勧められますが、由紀は、
「一度嫁いだ身だから実家には戻りません」
と言いはり、結婚生活を続けることを選択しました。
由紀は勝ち気な性格であり、実家に頼らず、また嫁ぎ先に心配をかけないために、琴の師匠として出稽古に赴いて家計を支えながら、姑にもそのことを内緒にします。そのために姑から疎まれたりします。
報われない苦労を思い、由紀は悲しくて涙をながすのですが、偶然、婚礼の日の夫の重症の真相を知りました。夫と犯人の瀬沼が、夫の部屋で密談をしているのを偶然聞いてしまったからです。
米の投機に手を出して公金を横領した瀬沼が、安倍に罪がバレたことを知り、安倍に闇討ちを仕掛けたのです。安倍はすべてを知りながら、 黙って損失の埋め合わせを行い、ひたすら瀬沼が立ち直ることを願いました。やがて瀬沼は改悛し、懺悔のために安倍のもとを訪れたのでした。安倍は瀬沼のために酒をふるまいたいと、妻に声をかけるのです。
由紀は酒を買いに出かけながら、「人はこんなにも深い心で生きられるものだろうか」と思い、かつて人生を悔やんだ自分を恥ずかしく思う……こういう話です。
次に『ちくしょう谷』。人間が人間をどこまで許せるのかを描いた作品です。
朝田織部は、公金横領が露見することを恐れた西沢半四郎と決闘して殺されました。
織部の弟である朝田隼人は、数日前に兄から、西沢を破滅させずに済む方法を相談する手紙をもらっていました。兄が西沢の罪を許していたように西沢を許そうと考えた隼人は、同時に貧しい人々の教化に尽くすことを決意して「畜生谷」と呼ばれる流人村へと赴任します。
昔、藩の犯罪人である「流人(るにん)」を閉じ込めていた陸の孤島である畜生谷は、今は犯罪者の留置所ではなくなったものの、その子孫が暮らす治安の悪い場所でした。血縁の濃い婚姻を繰り返したせいで障害者が多く、藩に反抗的。
隼人はその中で、人々の教化にいそしみます。ところが同じくこの地方の役人となっていた西沢から命をつけ狙われます。それどころか西沢は、障害者の娘を犯して殺すなどといった狼藉を働きます。
そんな折、村の桟道が崩れたために修理に向かった隼人は、西沢から何度目かの襲撃を受けました。ところが西沢は、はずみで逆に命を落としそうになり、隼人に救われました。ようやく罪を悔やんだ西沢は、隼人に忠誠を誓う、という物語です。
山本周五郎の持論によれば、人間が人間をいったんゆるしたならば、際限なくゆるすべきであり、適度なところで一線を画すという許し方は偽善にすぎない、というものでした。それを具体化したのが『ちくしょう谷』で、原稿用紙百数十枚の中編であるにも関わらず、脱稿までに4ヶ月を要したそうです。
私の感想
『男としての人生』全体を通しての感想です。私、高倉健をカッコイイと思っていたものですから、彼の愛読書があるときいて勇んで探し求め、ようやくこの本を読んだわけですが、感動するどころか、逆に高倉健に対する評価が下がることとなりました。ああ、これが彼の目指していた境地なのか、と。
もともと、山本周五郎の作品に一時期はまっていたのに、私はあるときを境に、彼の作品から離れました。山本の主張に共感できなくなったからです。
山本の描く人々の姿は確かに美しく思えます。見事だと思えます。しかし、なにか受動的な身勝手さを感じるのです。
たとえば、『ちくしょう谷』では、兄を殺した男を徹底的に許す朝田隼人の姿を描いていますが、結果的に朝田が西沢の罪を見逃したせいで、障害者の娘は惨殺されています。他人を間接的に殺したのと同然です。
西沢は朝田を殺そうとして偶然足をすべらせて危険に陥り、それを朝田に救われて改心しましたが、こんな偶然がなければ決して西沢は悔い改めずに罪を重ねたことでしょう。
『藪の陰』では、偶然夫と瀬沼の会話を聞かなければ、夫の善行を妻は知ることはありませんでした。
善行を誰にも告げずに黙って行ない、ときにそのまま死ぬことすらある人々の良さを、誰かに発見される、というのが山本周五郎の描く人物たちのパターンです。また、悪人の罪を暴き立てるのではなく、自分が悪者となって彼の罪をかばいながら改悛を待つ行為を山本は賞賛します。しかし、それって運任せですよね。
主体的な悪に対して、受動的な善。時間をかけて、善が悪を包み込む。それは一見美しくはありますが、植物的で弱々しい。それに、システムを変えるのではなく、システムの悪いところを温存したまま、自分が頑張ればいつか悪人も立ち直るだろうし、そんな自分を誰かが分かってくれるだろう、という態度は無責任で、必ず結果を出そう、という意思も感じられません。社会を良くしようと動くのではなく、自分が我慢すればいいとあきらめる人々を賞賛しているのでしょうか。
こういう主張が嫌いで、私、山本周五郎の本を読まなくなったんですよね。それを今、思い出しました。
価値観の問題なので、美しい男の生き方をお前は理解していない、と私をお叱りになる方もいらっしゃることでしょう。
また、山本周五郎の良さがお前にはわからないだけだ、とおっしゃる方もいるでしょう。そうかもしれません(いずれ私も考えが変わるかもしれません)。 でも、今はそのときじゃありません。
そうしますと、悪役となって不満分子を粛清することで、伊達藩存続を勝ち得た原田を賞賛する気持ちに、どうしてもなれないんですよね。
『藪の陰』では、偶然夫と瀬沼の会話を聞かなければ、夫の善行を妻は知ることはありませんでした。
善行を誰にも告げずに黙って行ない、ときにそのまま死ぬことすらある人々の良さを、誰かに発見される、というのが山本周五郎の描く人物たちのパターンです。また、悪人の罪を暴き立てるのではなく、自分が悪者となって彼の罪をかばいながら改悛を待つ行為を山本は賞賛します。しかし、それって運任せですよね。
主体的な悪に対して、受動的な善。時間をかけて、善が悪を包み込む。それは一見美しくはありますが、植物的で弱々しい。それに、システムを変えるのではなく、システムの悪いところを温存したまま、自分が頑張ればいつか悪人も立ち直るだろうし、そんな自分を誰かが分かってくれるだろう、という態度は無責任で、必ず結果を出そう、という意思も感じられません。社会を良くしようと動くのではなく、自分が我慢すればいいとあきらめる人々を賞賛しているのでしょうか。
こういう主張が嫌いで、私、山本周五郎の本を読まなくなったんですよね。それを今、思い出しました。
価値観の問題なので、美しい男の生き方をお前は理解していない、と私をお叱りになる方もいらっしゃることでしょう。
また、山本周五郎の良さがお前にはわからないだけだ、とおっしゃる方もいるでしょう。そうかもしれません(いずれ私も考えが変わるかもしれません)。 でも、今はそのときじゃありません。
戦後になってからだが、山本周五郎が『樅の木は残った』で、原田甲斐を"忠臣"として描いたことについて、封建社会で、藩家のために一身を犠牲にする忠義が賛美されている、と論難した"進歩的"批評者がいた。たしかに、封建社会は日本の歴史の一部です。それを否定するつもりはありません。しかし、現代社会に生きる我々は、前時代で評価されてきた生き方をそのまま称揚するよりも、その時代であっても現代に通じる価値観で生きてきた人々を称揚するべきです。それは人類に普遍的な価値観を手にしたと信じる私達の務めのように思います。
山本周五郎は直接かれに、それではあなたは、日本に封建社会があったこと、封建社会に生きていた人々の思考態度や、生活態度を、すべて時代おくれのものとして笑殺されるのか――と反論したのを覚えている。
日本に封建時代という時期があったのは、なんびとも否定できぬ歴史的事実なのである。そうした事実を踏まえたうえで、当時の武士や農民や商人が、どのように 人間として誠実に生きようとしたかを、山本周五郎は小説世界のなかで追求しつづけた。(第9章 男の宮仕え『男としての人生』より)
そうしますと、悪役となって不満分子を粛清することで、伊達藩存続を勝ち得た原田を賞賛する気持ちに、どうしてもなれないんですよね。
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